末永村(読み)すえながむら

日本歴史地名大系 「末永村」の解説

末永村
すえながむら

[現在地名]前原市末永

高祖たかす村の南に位置し、西は川原かわばる川を挟み西堂にしのどう村。中世は怡土いと庄の内。文永六年(一二六九)九月二〇日の入道無品親王庁下文(町村書上帳/鎌倉遺文一四)に「末永名」とみえ、田地四反が承元四年(一二一〇)に怡土庄預所から観音寺に寄進され、文永六年蓮智が同寺院主となっている。同八年末永名の観音寺免田四段と院主職が貞継に安堵されている(同年一〇月二日「怡土庄預所下文」改正原田記附録/鎌倉遺文一四)。正応三年(一二九〇)高祖郷末永名の田地一〇町などが文永・弘安の役の勲功の賞として田原基直に与えられた(同年七月一三日「蒙古合戦勲功賞配分状」入江文書/鎌倉遺文二三)。正安四年(一三〇二)末永名は基直の後家尼妙性から嫡子盛直(三分の二)と弟直貞(三分の一)に配分された(暦応二年一一月八日「足利直義安堵状」碩田叢史/南北朝遺文(九州編)二)。建武元年(一三三四)盛直が末永名一〇町の三分の二などを(同年六月一六日「雑訴決断所牒」田原卯七文書/南北朝遺文(九州編)一)、暦応二年(一三三九)には正曇(直貞)が残り三分の一の地頭職を安堵されている(前掲足利直義安堵状)

末永村
すえながむら

[現在地名]えびの市末永

池島いけじま村の南、北西流する川内せんだい川支流池島川左岸と同川支流白鳥しらとり川・出水いずみ川流域一帯を占める。南部はえびの高原に続き、白紫びやくし池・六観音ろくかんのん池・こしき岳・白鳥山などがある。飯野いいの郷に属する。初め正原まさはる村と称し、元禄一五年(一七〇二)頃は正原村、のち末永村と改めたがその年月は不詳という(日向地誌)。南方白鳥権現へと向かう白鳥往還が通る。慶長五年(一六〇〇)一月二一日「飯野正原村畠田村」のうち高一八石余が本領として島津忠恒から白鳥山金剛乗こんごうじよう(満足寺)光厳に与えられている(「島津忠恒領知目録」旧記雑録)。しかし同二〇年「飯野末永村之内 門前屋敷」高三石余などが白鳥山座主御坊へ諸役御免の知行として慶長内検後に安堵されている(「町田久幸外三名連署知行目録」同書)

末永村
すえながむら

[現在地名]四日市市本郷ほんごう町・末永・末永町・陶栄とうえい町・滝川たきがわ町・浜一色はまいつしき町・きよう町・川原かわら町・清水しみず町・野田のだ一―二丁目

海蔵かいぞう川と三滝みたき川の間の平坦地に位置し、村の東部を東海道が通る。西は野田のだ村、東海道を隔てて東は浜一色はまのいつしき村。「神鳳鈔」には朝明あさけ郡に「末永名」があり、寛正五年(一四六四)二月一七日河北八郎左衛門尉貞経寄進状案(氏経卿引付)も「朝明郡末永・末富御厨」とする。江戸時代は初め幕府領、慶安郷帳(明大刑博蔵)では、田方六三二・四七六石に対し、畑方は六五石と著しく少ない。

末永村
すえながむら

[現在地名]浅羽町浅羽

弥太井やたい村の西に位置する。正保郷帳末長村とみえ、横須賀藩領。田方一二九石・畑方二三石余、永伝えいでん寺領一石五斗。領主の変遷は一色いつしき村に同じ。「遠淡海地志」では家数二〇。安政三年(一八五六)江之端えのはた悪水吐圦樋伏替えをめぐる下手三〇ヵ村との相論に上手一〇ヵ村の一村として参加。元治元年(一八六四)上貫名かみぬきな(現袋井市)など五ヵ村との新規圦樋をめぐる相論にも諸井もろい用水組合の一村として参加した。助郷役は天保二年(一八三一)見付みつけ宿(現磐田市)代助郷となった(磐田市史)

末永村
すえながむら

[現在地名]吉井町清瀬きよせ

巨瀬こせ川中流右岸の微高地に位置する。日田街道が通り、吉井町の東に連なる。古くは末長村と記した(啓忘録抜萃)。文禄四年(一五九五)一二月一日の杉元式知行方目録(萩藩閥閲録)に「すゑなか村」とみえ、高七一石余。本高は七三石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高一二〇石・役高一六〇石。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高一六二石、文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田六町六反余・開田二歩・畑田六反余・畑四町余・居屋敷一反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報