デジタル大辞泉
「本郷」の意味・読み・例文・類語
ほん‐ごう〔‐ガウ〕【本郷】
1 その人の生まれた土地。故郷。
2 ある郷の一部で、最初に開けた土地。
3 郡司の庁、また、郷役所のあった場所。
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ほん‐ごう ‥ガウ【本郷】
[1] 〘名〙
① その人の生まれた土地。生まれ育った国。故郷。本土。本国。
※続日本紀‐天平一二年(740)六月庚午「大原采女勝部鳥女、還二本郷一」
② ある郷の一部で、最初に開けてその付近の発展の基礎となった土地。もとむら。
③ 諸郷のうち、諸役所のあった村。もとむら。
[2]
[一] (湯島本郷の意) 東京都文京区南東部の地名。本郷通(旧中山道)が南北に走り、
江戸時代は町屋のはずれにあたり、
武家屋敷が多かった。東京大学などがある。
[二] 東京市三五区の一つ。本郷台の一帯を占め、本郷・湯島・駒込・根津・
千駄木などが含まれた。明治一一年(
一八七八)発足。昭和二二年(
一九四七)
小石川区と合併して文京区となる。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
本郷
ほんごう
[現在地名]秋穂町大字西の全域と大字東の一部
秋穂湾を望む村で、湾の北方および東方にあたる。東は大海峠を境に大海村、西は秋穂二島村(現山口市)に接する。小郡宰判所属。
中世を通じ長講堂領であった秋穂二島庄に属し、その本郷にあたる地であったと思われる。
慶長五年(一六〇〇)の検地帳では二島村と合わせて秋穂庄と記され、同一五年の検地帳でも分離されずに秋穂村とあり、総石高三千六五六石余、うち田が二四二町余で二千五五一石余、畠は一〇一町余で五六七石余、ほかに浦屋敷が二八、小物成一二石余、浦浮役一二石余、塩浜方が三五六石余とある。「地下上申」で秋穂二島村と秋穂村に分れる。「注進案」では二島村と本郷に分けられ、本郷は「当村は秋穂庄本郷にして別に村名を唱へ不申候」と記される。
本郷
ほんごう
現北方・南方・郡司分付近は中世は本郷と称され、建久図田帳の八条女院領国富庄の一円庄にみえる宮崎郡国富本郷に由来すると思われる。同郷は二四〇町で、地頭は土持太郎宣綱であった。中世初め頃、日下部妻万太夫久仲は本郷など三ヵ庄を知行したとされる(寛政一一年「日下部姓岩切系譜」岩切文書)。文和二年(一三五三)二月一日の一色道猷宛行状(島津家文書)によると、道猷(範氏)は島津氏久に対し勲功の賞として本郷と大隅国加治木院(加治木郡司跡)の地頭職を宛行っている。
本郷
ほんごう
本郷台地の中心部を占める。江戸時代には中山道(日光御成道と重複)が縦貫し、東流する神田川を隔てて南は神田駿河台地区、西は小石川地区、北は駒込地区、東は根津地区、南東は湯島地区に囲まれていた。本来は湯島本郷を意味した地名と推定される。「北条記」(信玄小田原出張事)には、永禄一二年(一五六九)甲斐の武田軍が小田原へ進軍の途中、富永神四郎の守る江戸城を攻略したときのこととして、葛西に遠山、本郷に太田・篠原・山角・寺尾・諏訪右馬助などの各氏が布陣していたことが記される。
本郷
ほんごう
[現在地名]美祢市西厚保町本郷
東を厚狭川、北をその支流原川が流れる。
中世には厚保の地頭厚保氏が本郷の本久の地に居館を構えていたという。「注進案」は厚保村の古城跡を記すなかで、「厚保入道元久と申人居城の跡と申伝へ候、松嶽山正法寺の古書に、元亨・正中の比、厚六郎左衛門入道と有、此人のことならんか詳ならず、本久村城山と申峯に平地有之のみに御座候」と述べる。城山山麓には大門という地名も残り、城山東麓の上ノ土井・下ノ土井が厚保氏居館地の跡であろうといわれる。厚保元久(本久)の墓といわれる五輪塔が残り、「天正十三年二月一日厚入道源朝臣本久」と記されている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
本郷 (ほんごう)
東京都文京区南東部の地名。1~7丁目に分かれる。かつては広く湯島,駒込などを含む旧本郷区全域を指した。古くは〈本江〉とも記した。名称は《和名抄》に見える湯島郷(武蔵国豊島郡)の本郷に由来するといわれる。武蔵野台地の東端,神田川北岸の本郷台に位置し,藍染川や小石川の谷によって刻まれ,坂が多い。東京大学,順天堂大学など各種教育機関が集まる文教地区であるが,本郷通りには古本屋,医療器具店,旅館なども多く,商業地区を形成している。東京地下鉄丸ノ内線,都営地下鉄大江戸線が通じる。
執筆者:正井 泰夫
歴史
1559年(永禄2)成立の《小田原衆所領役帳》には小机城主北条氏秀の所領として〈百九十貫文 江戸本郷〉とみえる。当時は純農村であったが,徳川家康の関東入国(1590)以後,寛永(1624-44)の初めころまでに大半は武家地と化した。なかでも村域南部には小人,中間などの下級幕臣が大縄(組単位)で拝領した組屋敷が集中し,北部には加賀藩前田家,三河岡崎藩本多家などの広大な大名屋敷が並んだ。中山道が貫通する交通の要地であっただけに,町屋も早くから発達した。戦国時代末期に町屋形成が始まり,寛文(1661-73)以前に1~6丁目に分かれた。江戸時代前期には魚介類を扱う町人の町として栄え,1丁目には蜊店(あさりだな)横町,3丁目には肴店(さかなだな)と俗称される一角があった。肴店には1725年(享保10)日本橋の有名な呉服商伊豆蔵屋(いずくらや)吉右衛門が支店を開いて人気を集めたため,肴店は伊豆蔵横町とも呼ばれた。同じころ,3丁目には口中医師の兼康(かねやす)祐悦が薬種・小間物屋を開き,乳香散という歯磨粉を売り出したため,兼康横町という町名が生じた。このほか4丁目にも36年(元文1)笹屋という薬種屋が進出して光明膏という目薬を売り広め,これまた繁盛した。しかし川柳に〈本郷も兼康までは江戸の内〉とあるように,町場としてのにぎわいをみせたのは兼康の店がある3丁目あたりまでで,4丁目以北は明暦の大火(1657)の火元となった本妙寺などの寺院と武家屋敷が続くさびしい場所であった。
なお元和・寛永(1615-44)以降,下級幕臣の大縄拝領屋敷内にも町屋が次々と設けられ,1696年(元禄9)ころにそれぞれ町奉行支配となった。竹木商人が集住していた竹町,小人頭牧野金助の拝領地であった金助町,伊勢の御師(おし)春木太夫の旅宿があったという春木町,もとは菊畑であったという菊坂町などである。1878年本郷地域に湯島,根津など周辺地域を合わせ本郷区が成立した。1947年本郷区と小石川区が合併し文京区となった。
執筆者:大石 庄一 近代の本郷は加賀藩上屋敷跡地にできた東京大学を連想するほど学生の街としてのイメージが濃厚である。それにふさわしく本郷3丁目周辺は書店や喫茶店が多く,台町,菊坂町には文士や学者などの根城だったことで有名な菊富士ホテルの前身,菊富士楼をはじめ旅館,下宿屋および寄宿舎などが多かった。真光寺薬師の縁日が毎月12日,それに本郷電車通りの夜店のにぎわいが重なって,本郷は山手有数の盛場だった一時期があったが,しだいに白山(はくさん)の方へ移っていった。また文学者と本郷との関係も密接で,樋口一葉,二葉亭四迷,高山樗牛,徳田秋声,若山牧水,石川啄木,金田一京助,上林暁,田宮虎彦らは,いずれもこの地に借家住いをしたり止宿したりしている。
執筆者:小木 新造
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
本郷
ほんごう
山口県東部,岩国市北部の旧村域。錦川の支流本郷川中流域を占める。 1889年村制施行。 1911年河波村の一部を編入。 2006年岩国市,由宇町,玖珂町,周東町,錦町,美川町,美和町の1市6町と合体して岩国市となった。中心集落の本郷は江戸時代,山代宰判の勘場 (代官所) が置かれ,地方行政の中心地であった。現在は旧錦町の広瀬にその機能は移った。農林業が主産業。北部に羅漢山 (1109m) を中心とする羅漢山県立自然公園がある。
本郷
ほんごう
長野県中西部,松本市東部の旧村域。田川支流の女鳥羽 (めとば) 川流域に位置する9村が 1947年に合体して本郷村となり,1974年松本市に編入。中心集落の浅間には浅間温泉があり,美ヶ原への登山口となっている。
本郷
ほんごう
東京都文京区南東部の地区。旧区名。江戸中期には地区南部は町屋として栄えた。明治以降東京大学を中心に文教地区を形成。古書店,旅館,医療器具店が多い。石川啄木,徳田秋声の旧居跡がある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
本郷【ほんごう】
東京都の旧区。1947年小石川区と合併し文京区となった。文京区東部,湯島,駒込を含めた地域であるが,現在は本郷1〜7丁目をさす。江戸時代は本郷2丁目の〈かねやす〉まで江戸の内といわれ,その外に大名屋敷が並んだ。東京大学があり,書店,飲食店,下宿,旅館,医療器具店が集中,一部に古い下町の家並みが残る。
→関連項目元禄の大火|明暦の大火
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本郷
吉川弘文館が発行する文芸誌、書誌PR誌。1995年創刊。隔月刊。書店店頭での無料配布もある。
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