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生没年未詳。中国、北宋(ほくそう)~南宋の画家。字(あざな)は晞古(きこ)。河陽三城(河南省孟(もう)県)の人。徽宗(きそう)帝(在位1100~25)の宣和(せんな)画院に入る。北宋滅亡後は流浪の生活を送ったが、1138年(紹興8)ごろ、南渡した臨安(りんあん)の地で画院に復職、官は成忠郎に至り、金帯を賜った。このとき80歳近くの高齢であったという。李唐は北宋絵画と南宋絵画をつなぐ重要な役割を果たした。山水、人物その他すべてにわたり得意であったといわれる。台北の国立故宮博物院蔵『万壑松風(ばんがくしょうふう)図』を北宋時代の作、京都・大徳寺高桐(こうとう)院蔵『山水図』双幅を南宋時代の作とする説がある。いまだこの論議は決着をみてないが、李唐の画風の幅広さを示すものとして、この2作を代表作とすることには異論がないものと思われる。
[近藤秀実]
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…江南山水画が再評価されるようになるのは北宋も後期以後,紙や墨などの素材のもつ滲みなどの効果に鋭い感受性を示した米芾(べいふつ)・米友仁父子によってであるが,華北山水画と江南山水画のこういった再対立・再総合の機運は十分熟さないまま,南宋と金とが中国を二分して形づくられる,山水画における南北の複雑な対立状況が出現する。北宋絵画の正統を受け継ぐと自負する金には王庭筠らの文人画家,南宋には四大家と称される李唐,劉松年,馬遠,夏珪ら,北宋画院の伝統を継承する画院画家が現れ,それぞれの絵画史の基調を作りあげた。この百数十年間は,政治的要因によって強いられた南北対立の時代であると同時に,対立する南北のそれぞれに絵画史的な意味での南北対立が見られる複雑な時代でもあった。…
…蘇軾,米芾,李公麟をはじめとする文人たちの絵画界への積極的な参加と,そこで形成された絵画観は,彼らと交渉のあった宮廷画家郭熙を通して画院(翰林図画院)にも影響し,同時に趙令穣,王詵(おうせん)ら貴族たちの細緻な画風とも結びついて,さらに徽宗の指導も加わって詩的な暗示的表現に富む院体画風を成立させる。この時期の画院における李唐は対象を単純明快な形態に還元させる新傾向を提示し,それはのちに馬遠,夏珪(かけい)によって南宋院体山水画の典型へと展開していく。彼らの山水画における余白空間の大きな対角線的構図は,北宋山水画の正面的な対象把握に対して,画面構成における一方の極とみなしうる。…
※「李唐」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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