李奎報(読み)りけいほう(英語表記)(R)I Kyu-bo

改訂新版 世界大百科事典 「李奎報」の意味・わかりやすい解説

李奎報 (りけいほう)
(R)I Kyu-bo
生没年:1168-1241

朝鮮高麗朝の詩人,政治家。字は春卿,号は白雲居士,諡(おくりな)は文順。京畿道黄驪県の人。年少のときから経・史・仏・老の書を学び,1190年進士に及第したが,若いときには不遇で下級官僚にとどまり,1202年慶州の反乱討伐に従軍しても戦功はむくわれなかった。やがて武人政権の権力者崔忠献(さいちゆうけん)に詩文の才を認められてから頭角をあらわし,文学界の第一人者としての名声をかちとった。《麴先生伝》《白雲小説》などがあり,また民族意識を高揚した長編叙事詩《東明王篇》などの作者として知られる。また蒙古との関係が緊迫すると外交文書の作製を担当し,その功で枢密院副使,集賢殿大学士,守大尉参知政事になった。その詩文集《東国李相国集》53巻は当時の詩文の最高水準を示し,朝鮮文学史上の重要著作である。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「李奎報」の意味・わかりやすい解説

李奎報
りけいほう
Yi Kyubo

[生]毅宗22(1168)
[没]高宗28(1241)
朝鮮,高麗中期の政治家,学者。京畿道驪州郡出身。字は春卿。号は白雲山,白雲居士。諡は丈順。幼少より才気豊かで,文章,詩文に長じ,また経史,百家,老仏諸書に広く通じた高麗一代の文豪と称された。明宗 20 (1190) 年進士に及第,以後累進し,門下侍郎平事にいたった。彼の生きた時代は,いわゆる崔氏一門による武臣専権の時代であった。彼も崔忠献 (さいちゅうけん) の請いにより『茅亭記』をつくって抜擢されたが,崔忠献と意見が合わず,一時左遷されたこともある。高宗8 (1221) 年,彼は王意を受け,モンゴルへの国書を作成し,これが対モンゴル外交に効を奏したので,枢密院副使,吏部尚書,集賢殿大学士参知政事を授けられた。主著『東国李相国集』『白雲小説』『天磨山詩』『東明王編』。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「李奎報」の意味・わかりやすい解説

李奎報
りけいほう / イキュボ
(1168―1241)

朝鮮、高麗(こうらい)朝の詩人。字(あざな)は春卿、号は白雲居士。幼時から詩文にたけて奇童とよばれた。22歳のとき文科に及第したが、仕官を嫌い天馬山に隠居して詩作没頭、のちに官界に入り、長い地方官吏を経て門下侍郎平章事(正二品)にまでなるが、まもなく隠退。豪放な詩風で一世を風靡(ふうび)した。彼の詩は現実に根ざしたものが多く、批判精神に貫かれている。死後、子の李涵(りかん)が編んだ『東国李相国集』には長編叙事詩『東明王篇(へん)』などの詩や散文が収められている。ほかに『白雲小説』がある。

[尹 學 準]

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