東中野俣村(読み)ひがしなかのまたむら

日本歴史地名大系 「東中野俣村」の解説

東中野俣村
ひがしなかのまたむら

[現在地名]栃尾市東中野俣

西谷にしだに川の支流まえ上流部にあり、繁窪しげくぼと上流の新山あらやまとからなる。西の西中野俣村とは村境が不分明。慶長年間(一五九六―一六一五)に東西に分れたと伝えるが、近世初期までは一村同様に扱われた。文明年間(一四六九―八七)の長尾・飯沼氏等知行検地帳(上杉家文書)には同一七年の検地分として本田・増分合計五千九〇五束苅の「中俣」がみえ、中条修理亮代太郎右衛門の給地となっている。明応六年(一四九七)七月五日の大関政憲外三名連署役銭注文(同文書)には「中俣半」として六郎右衛門尉と北村八郎右衛門方から各々二貫七〇〇文が納められている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報