東名村(読み)とうみようむら

日本歴史地名大系 「東名村」の解説

東名村
とうみようむら

[現在地名]佐賀市金立町きんりゆうまち大字金立かなたて大門だいもん金立町きんりゆうまち大字千布ちふ字東名・土井側どいがわ

徳永とくなが川(巨勢こせ川)左岸の東名・土井川(側)と、金立村北部の大門を含み、飛地をもった村であることが文化一四年(一八一七)の郷村帳でわかる。応永三三年(一四二六)の常見家長田地寄進状(実相院文書)に「佐嘉郡安富庄千布村東名之内」とある。千布村に属していた。藩政期には佐賀本藩の蔵入地で、天保九年(一八三八)の地米(年貢)高は二七二石八斗七升六合。


東名村
ひがしのみようむら

[現在地名]守門村東野名ひがしのみよう

西名にしみよう村の北にある。北は高倉たかくら村。正保国絵図に「東ノ名村」とあり、高四五石余。天和三年郷帳では高四一石余、ほかに同所新田高二〇石一斗余がある。同年(一六八三)検地帳(守門村史)では田二町六反余・畑一町五反余。屋敷持は六人。青苧畑はすべて屋敷持百姓が所持。ほかに同所新田があり、田一町七反余・畑四反余。寛保三年(一七四三)に糸魚川藩領となる。年不詳の糸魚川領魚沼郡二十三ケ村御水帳写(石野武教氏蔵)では田二町六反余・畑一町五反余、青苧畑は七畝余。畑のうちには切替畑が一反余ある。


東名村
ひがしみようむら

[現在地名]垂水区名谷町みようだにちよう・つつじがおか一―二丁目・同四―五丁目・桃山台ももやまだい二丁目・同四丁目・同七丁目

福田ふくだ川上流の左岸に位置し、南は東垂水村。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳では田方一五一石余・畠方一七石余、芝山あり。宝永元年(一七〇四)の高一八七石余(うち一八石余永川引)、田方一五一石余・八町三反余、畑屋敷一七石余・一町四反余、家数一七(本百姓役家五・置百姓六・水呑百姓四・池守一・その他一)・人数一二八、牛一一(「指出帳」東名村文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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