東木倉村(読み)ひがしきのくらむら

日本歴史地名大系 「東木倉村」の解説

東木倉村
ひがしきのくらむら

[現在地名]御船町木倉きのくら

西と南は南木倉村、北は飯田いいだ(四三一・二メートル)を越えて小池おいけ村・砥川とがわ(現益城町)となる。日向往還が通り、東は軍見ぐみ(郡見坂・苦身坂)を経て西上野にしうえの村へ至る。甲斐宗運が御船城主御船房行を破ったところで、「事蹟通行」に「天文十年十一月(中略)房行迎来合戦木倉、房行敗死」、「拾集昔語」に「苦労坂之峠ニ本陣をはり、木倉御舟にて被遂合戦を、親直被得勝利」とみえる。長さ一・六キロ、比高一八〇メートルの急坂。また西南戦争では敗走する西郷軍が難渋した坂でもある。慶長一三年(一六〇八)一〇月一三日の鳥居次郎右衛門宛加藤清正黒印状(鳥居文書)に「木倉村」とみえる。

東木倉村
ひがしきのくらむら

[現在地名]那珂町東木倉

那珂川の左岸に位置し、西は中河内なかがち(現水戸市)と西木倉村。南部の水田地帯には一町田いつちようだ・ソリまち三反田さんたんだ・五反田・扇田おうぎだなどの地名が残り、条里制の名残といわれる。佐竹知行目録(彰考館蔵)文禄四年(一五九五)七月一六日の項に「百五拾石那珂郡内東木倉内 大縄讃岐守」とみえる。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「東木倉村」とある。「水府志料」によると戸数およそ一五。「用水渠 長弐百四拾弐間。所謂小場江筋なり」と記される。

字清水の台地に曹洞宗清水寺があった。水戸祇園ぎおん寺末寺で元禄一〇年(一六九七)心越の高弟呉雲の建立という。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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