玄水とも書く。大道芸人,香具師(やし)。昭和期までに17代を数える。松井家の元祖玄長は,越中礪(砺)波(となみ)の出身で,霊薬反魂丹(はんごんたん)を創製し,2代目道三のときに富山袋町に移住して,武田信玄から売薬御免の朱印を受けた。延宝・天和(1673-84)のころに,4代目玄水が江戸へ出て反魂丹を売りはじめたが,その宣伝,販売のために,箱枕をいろいろと扱う曲芸〈枕返し〉や居合抜きなどを演じた。享保(1716-36)ごろには,居合抜きのほか曲独楽(きよくごま)(独楽)を演ずるようになり,将軍家重の浅草寺参詣のおりには上覧に供して御成(おなり)御用の符を拝領した。代々,浅草奥山において,歯磨粉や歯の薬を売り,歯抜きや曲独楽によって人寄せをしていた。13代目は,1866年(慶応2),曲独楽をもって初めて西洋に渡航した。明治時代になっても,浅草公園の凌雲閣(十二階)下において芸を演じ,歯の治療をしていたが,正式の医師規定制定以後は見られなくなった。
執筆者:興津 要
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大道芸人、香具師(やし)。昭和まで代々17代この名跡が伝えられた。先祖は越中(えっちゅう)国(富山県)の人で、反魂丹(はんごんたん)という薬を創製したという。4代目が延宝(えんぽう)・天和(てんな)(1673~84)のころ江戸に出てこの薬を売り広め、その宣伝に初めは枕(まくら)返しなどを演じていたが、流行の居合抜きを取り入れて客を集めるようになった。このころから歯磨粉(はみがきこ)や歯薬も売るようになったようで、のちにはそのほうが有名になった。享保(きょうほう)(1716~36)ごろ博多独楽(はかたごま)を取り入れ、曲独楽(きょくごま)を演じるようになり、13代目は1866年(慶応2)にこの芸をもって洋行興行も行っている。江戸・浅草奥山に代々居住していたが、明治期には凌雲閣(りょううんかく)の下の入歯の店の前に出て呼び込みの芸を演じた。浅草蔵前の長井兵助(ながいひょうすけ)とともに大道物売りの芸人として代々有名であった。
[織田紘二]
明治・大正期の寄席芸人
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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…1700年(元禄13)博多から京へ上った美少年の初太郎が曲ごまの興行を行って大あたりをし,やがて流行は江戸に及んで,以来曲ごまは日本独得の曲芸として定着していった。幕末には松井源水,竹沢藤治らの名手が出,1866年(慶応2)には初めてアメリカ興行を行っている。幕末の曲ごまについてはオールコック《大君の都》(1863)に詳しい。…
…わずか八文,おんはこづめが三十二文〉(《合物端歌弾初》)といった売り声をたてて売り歩いた。有名な歯磨売に,松井屋源左衛門,松井源水や〈百眼(ひやくまなこ)の米吉〉がいた。米吉は〈百眼の目鬘(めかずら)〉という眼鏡状の面をつけて種々のおもしろい芸を見せて歯磨粉を売ったといい,1853年(嘉永6)には芝居にも登場していっそう人気を博したという。…
※「松井源水」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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