松本烝治
まつもとじょうじ
(1877―1954)
わが国における商法学を確立した代表的学者。東京生まれ。1900年(明治33)に東京帝国大学法科大学を卒業後、農商務省に入ったが、1903年に母校の助教授に迎えられ、ドイツ、フランス、イギリスに留学後、1911年教授となり、商法、民法の講座を担当した。1913年(大正2)以来法制局参事官を兼ねたが、1919年大学を去って南満州鉄道株式会社の理事、ついで副社長となる。1923年には第二次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣の法制局長官となり、関東大震災後の非常時立法の制定に意を用い、1934年(昭和9)には斎藤実(さいとうまこと)内閣の商工大臣、1945年(昭和20)には幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣の国務大臣として憲法改正の中心的存在となった。手形法、小切手法、有限会社法の制定、1938年の商法改正などに指導的役割を果たし、立法を通じて商法学の発展に寄与した功績は大きい。その他著書、論文も多く、今日のわが国における商法解釈学は彼によって確立されたといえる。その鋭く回転の速い頭脳とスケールの大きい人柄とは、彼を単なる学究として研究室に閉じこもらせることなく、政界、法曹界(弁護士)を含めその活躍は多方面にわたっていた。
[戸田修三]
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松本烝治 (まつもとじょうじ)
生没年:1877-1954(明治10-昭和29)
商法学者,政治家。東京生れ。東京帝大卒。手形法(1932公布)や小切手法(1933公布)の制定や,1938年の会社法大改正を指導した。戦後,幣原喜重郎内閣の国務大臣として憲法改正案の起草を指導したが,その案は,総司令部に拒否された。1910年東京帝大教授。13年より法制局参事官を兼任し,商法の標準的教科書のほか多くの論文を著した。19年東大を辞し,満鉄理事,同副社長,法制局長官,商工大臣を歴任。弁護士としても活躍し,多くの会社の顧問も務めた。24年から貴族院議員。
執筆者:長尾 龍一
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松本烝治 まつもと-じょうじ
1877-1954 明治-昭和時代の商法学者,政治家。
明治10年10月14日生まれ。松本荘一郎の長男。明治43年母校東京帝大の教授。のち満鉄副社長,関西大学長,商工相などを歴任。手形・小切手法,会社法改正などの立案・制定にたずさわる。昭和20年幣原(しではら)内閣の国務相として憲法改正草案を作成したが,GHQに拒否された。貴族院議員。学士院会員。昭和29年10月8日死去。76歳。東京出身。
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松本烝治
まつもとじょうじ
1877.10.14~1954.10.8
大正・昭和期の商法学者・政治家。東京都出身。東大卒。1903年(明治36)東京帝国大学助教授,商法を担当。欧州留学後の10年同教授となる。19年(大正8)同大学を辞し,満鉄副社長・内閣法制局長官・商工相(斎藤実内閣)などを歴任。第2次大戦後幣原(しではら)内閣の国務大臣として憲法改正案の起草を手がけたが,総司令部の拒否にあった。著書「私法論文集」。
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松本烝治
まつもとじょうじ
[生]1877.10.14. 東京
[没]1954.10.8. 東京
商法学者。東京大学卒業後,1910年同大学教授。 19年南満州鉄道株式会社理事,次いで副社長,22年辞任。 23年法制局長官,24年貴族院議員。第2次世界大戦後,45年には幣原内閣の国務大臣として憲法改正問題を担当し,46年松本私案と呼ばれる憲法改正案要綱を作った。主著『商法解釈の諸問題』 (1955) 。
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世界大百科事典(旧版)内の松本烝治の言及
【日本国憲法】より
…1945年10月,連合国最高司令官マッカーサーは,日本の政府に2度にわたって,ポツダム宣言を受諾した以上明治憲法を抜本的に改正すべきだと勧告した。政府(幣原喜重郎内閣)は,これを受けて国務大臣松本烝治を主任とする憲法問題調査委員会を設置した。同年12月8日,松本は,衆議院で,以下の4原則(〈松本四原則〉)に基づき,同委員会が憲法改正案を作成する旨を表明した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」