柳川調信(読み)やながわ・しげのぶ

朝日日本歴史人物事典 「柳川調信」の解説

柳川調信

没年慶長10.9(1605)
生年:生年不詳
安土桃山・江戸時代初期の対馬宗氏の重臣。通称は甚三郎,権之輔。従五位下,下野守となる。出自不詳。天正7(1579)年朝鮮に渡った「日本国王使」のなかに私貿易管轄官として名前がみえる。中央政権との折衝や朝鮮貿易経営に才覚を発揮,急速に勢力を拡大し宗家の重臣となる一方で,豊臣・徳川政権,朝鮮政府からも重んじられた。豊臣秀吉朝鮮侵略から日朝外交復活に至る時期には,島主宗義智や外交僧景轍玄蘇らと協力して,対馬の立場を守るため尽力した。しかし,柳川氏の中央政権や朝鮮政府との強力な結び付きは,のち孫の調興が宗氏との間に争論(柳川一件)を引き起こす原因となった。

(鶴田啓)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「柳川調信」の解説

柳川調信 やながわ-しげのぶ

?-1605 織豊-江戸時代前期の武士
対馬(つしま)(長崎県)府中藩の重臣。文禄(ぶんろく)・慶長の役前後の朝鮮外交に活躍,豊臣・徳川との交渉にもあたる。関ケ原戦い西軍に味方した藩の苦境弁明,陳謝して本領安堵(あんど)につくした。慶長10年9月死去。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の柳川調信の言及

【宗義智】より

…文禄・慶長の役に小西行長とともに活躍,肥前に領知1万石を与えられた。戦後も重臣柳川調信(しげのぶ)らと国交回復に尽力した。1605年(慶長10)講和が成立,以後朝鮮関係の独占を許された。…

【柳川一件】より

…1631年(寛永8)対馬の大名宗義成(そうよしなり)と家老柳川調興(しげおき)の御家騒動から,日朝間の国書の偽作・改竄(かいざん)などの不正が露顕して,幕府外交上の大問題となった事件。柳川氏は調興の祖父調信の代に日朝関係の実務派として台頭,朝鮮と日本の中央政権の双方に独自の地位を築いていた。この事件は,35年,将軍徳川家光の親裁によって調興方の有罪に決し,義成はひきつづき日朝関係の管掌を認められた。…

※「柳川調信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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