出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
北海道東部,釧路・根室両支庁管内にまたがる標高200m以下の広大な台地。根釧原野とも呼ばれる。地形の上では丘陵地帯,沖積地,山麓台地の三つに分けられる。面積はおよそ5000km2に及ぶ。台地の大部分を占める標高100m以下の丘陵地帯は標津(しべつ)線転換バス路線の標茶(しべちや)~中標津間の南側に広がり,厚さ約2~10mの火山灰層が洪積層の上を覆っている。沖積地は,丘陵地帯に浅い谷を形成しながら東に向かって流れる標津,春別,床丹,西別,風蓮などの河川沿いに見られ,その大部分が泥炭層の湿地となっている。丘陵地帯の北側には火山砕屑物(さいせつぶつ)で覆われた標高100~200mの山麓台地が広がっている。年平均気温5℃程度,8月の平均気温も17℃前後と低温のうえ,夏季は海霧のため日照時間が少なく,年間の無霜日数も120~130日にすぎず,北海道でも気象条件はもっとも劣悪である。そのため長い間不毛の原野として取り残され,開拓が遅れた。
台地の海岸部の漁村を除くと,台地の開拓はようやく大正末期になって始まり,自由移民が入植して穀類の栽培を行った。しかし,1933-34年の凶作で農民は壊滅的な打撃をうけた。このころから根釧原野開発五ヵ年計画に基づき,畑作から牛馬を中心とした有畜経営への転換が図られるようになった。しかし,本格的な開発は第2次世界大戦後のことで,中でも世界銀行の資金を導入して近代的酪農村を建設しようとした根釧パイロット・ファーム計画が注目される。この開拓事業は建設工事に大型土木機械を使用して,開墾と土壌改良に必要な工期を大幅に短縮するほか,あらかじめ入植者の住宅を用意して,営農の早期安定を目ざした点に特徴がある。工事は1955年から開始され,床丹第2地区187戸,第1地区174戸が入植した段階で,新規入植が打ち切られた。酪農の著しい発展の結果,農地に占める普通畑の比率は5%前後に低下し,しかも比較的冷害に強いジャガイモ,テンサイの作付面積がその大部分を占めている。一方,乳牛頭数は1960年に約4万頭であったが,82年には約23万頭に増加した。乳牛の頭数の増加にくらべて飼養農家が減少したため,専業化,多頭化が急速に進行している。
台地には主要集落の中標津,西別のほか,川北,計根別(けねべつ),西春別,上春別,厚床,茶内などの小さな市街地が根室本線や主要道路沿いに分布し,農村地帯へのサービスセンターとしての機能を果たしている。
執筆者:奥平 忠志
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北海道東部、釧路(くしろ)川以東から根室(ねむろ)海峡に至る広大な台地。根釧原野ともいう。面積約2000平方キロメートル。標高100メートル以内の台地で、2~10メートルに達する火山灰層が台地面を被覆する特殊な土壌地帯である。標津(しべつ)、春別(しゅんべつ)、床丹(とこたん)、西別(にしべつ)、風蓮(ふうれん)などの主要河川は東方ないし南東方向へ流れ、河谷は泥炭地を形成する。年平均気温6℃、内陸部でさえ最暖月の平均が20℃を割る低温、夏期の多湿、短い無霜期間、低い地力が災いして、穀物主体の畑作は成功しなかったため、北海道庁は1932年(昭和7)から根釧原野開発五か年計画を実施し、畑作、乳牛飼育を結合した混同経営方式を奨励した。第二次世界大戦後、台地の大部分が牧草地に変わり、乳牛を多頭飼育する草地型酪農が発展した。
[古川史郎]
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