翻訳|flora
地球上の全体から,一つの大陸,あるいは一つの山塊や,その中の一つの谷と,その空間的スケールはさまざまであっても,ある限定された地理的空間に見いだされる植物の種のまとまりを植物相(フロラともいう)と呼ぶ。あらゆる時代の地理的探索において,たとえば,それが生活のための食糧採集であっても,人間はその地域に生育する植物に注意をはらってきたし,異なる地域におもむくと,異なる植物の種に出会うという観察を積み重ねてきた。いつの時代も,生物としての人間の生存にかかわる植物資源は,重要な探索の目標であった。とくに16世紀以降,ヨーロッパ世界による新大陸の〈発見〉やアフリカやマレーシア熱帯への〈侵出〉は,植物相の貧弱なヨーロッパ世界にとっては,思いもかけない植物群の発見をもたらしただけでなく,新大陸から旧大陸,あるいはその逆の植物群の人為的な交流,とくに有用植物のそれを引き起こした。このような地域植物群の異同の全地球的なレベルでの認識の進展は,18世紀になってリンネによる生物群の分類体系の構築をもたらし,古い博物学から,科学としての生物分類学の基礎がこの時期に形成された。18世紀から19世紀を通じて,地域生物群の調査は生物学の主要な目標であった。その中で,地域ごとに生物群の種類の組合せには似かよりの程度がさまざまだが,それらを比較するとよく似た生物種の集合が認められる地域があることが認識され,生物相の区系概念が形成された。また,かけ離れた地域間に,目だって類似した種の組合せの生物群が分布している現象も見いだされた。進化論が確立されるにつれて,これらの分布現象は現在の環境条件で決定づけられているだけでなく,地球の歴史をも反映しているものと主張された。東アジア地域の植物群と北アメリカ東岸地域の植物群との比較は,アメリカのA.グレーによって1859年に最初に報告され,東アジアと陸つづきのヨーロッパや,距離的には近い北アメリカ西部よりはずっと類似した植物群が存在していることが明らかにされた。この現象は,氷河期以前に北半球に広く分布していた植物群が,東アジアと北アメリカ東岸に生き残ったと説明された。
現在は,区系という生物群の構成のまとまりは,類似した生態環境条件によってだけではなく,地史的な歴史過程の中での生物群の進化と分化によってもたらされたものであると考えられている。
地域植物相(生物相でも)の解析は,植物相を構成するそれぞれの種の分布型を記述することから始まる。すると直ちに,植物相はさまざまな分布型を有する種の複合的な構成物であることが明らかとなる。この分布型はいくつかのカテゴリーに群分けされる。すなわち,
(1)その地域にだけに限定された分布型(固有) (a)その地域で起源して他地域に分布を拡大していないもの(新固有),(b)かつては広く分布していたが,他地域では絶滅したもの(古固有)。
(2)他地域にも分布する (a)海洋で隔てられた他大陸の同じような生態気候環境の存在する地域に広く分布する(広分布,汎分布(はんぶんぷ)),(b)程度はさまざまであるが,他地域に分布している。広く分布するものは広分布種とみなされるが,比較的狭い分布は固有的とされることもある(たとえば東アジア固有)。
固有から広分布のカテゴリーは段階的,相対的なものである。もし地球外生命体が発見されれば,それとの対比で地球上の生物相を地球固有と記述することもできる。
このように生物の種類によって分布域の広がりが異なり,それらの地球上の分布域についてのカテゴリーが区分できるのは,それぞれの生物群(系統類縁群)が,それぞれ独自の進化的過程によって形成され,その過程は地理的・生態的環境条件と結びついて進行したからであろう。分布型の上記のカテゴリーは,生物群の進化的な分化という側面から見れば,若い形成されたばかりの群(新固有)→成功した広い領域を占有する群(広分布)→古い残存し限定された空間にとじ込められた群(隔離分布)→絶滅直前の群(古固有)の起源から絶滅にいたる〈起・承・転・結〉を定式化したものである。この分布型の〈進化的〉類型化は,しかしながら理念的なものであって,実際の進化過程を正しく反映したものとはいえない。生物の進化現象にしばしば見られることに,特殊な環境(乾燥,重金属イオンの多い土壌地帯など)に特殊に適応分化する場合や,似たような環境をこまかく空間的にすみわけ,地理的に細分化する方向に進化が起こる場合がある。このような生物群では起源した新固有的分布域も,成功した場合も,絶滅の一歩手前の状態でも,その生物がうまく特殊環境に適応していればいるほど分布域は限定されたものであるだろう。このような場合には,分布域の広がりからは,それが新固有か,古固有か,それとも安定した分布圏を確立しているかは判定できず,地史的なデータ,系統進化的なデータから推論をくだし判定するよりない。
陸上において,植物にとって生存の難しい空間は,寒冷な環境と乾燥した環境である。この特殊な気候環境には,それぞれに特異な植物群が適応分化しているが,乾燥環境に対する適応分化がとくに目につく。地球上には中央アジア,西アジア,北アフリカと連続する地域,南アフリカ,北アメリカ西南部から中央アメリカ,南アメリカ西岸部,それにオーストラリア大陸と,乾燥気候が優越する地域が存在し,そこでは水分の蒸散を最小にするように分化した多肉植物が多く見られる。ところが,新大陸の乾燥地帯の多肉植物を代表するものは,サボテンとリュウゼツランであるが,アフリカでは多肉ユーフォルビア,アロエ,それにマツバギクの仲間である。これらは生活型では並行的な進化をして,外形的には類似することがあるが,進化系統的には異なったもので,それぞれの地域で異なった植物系統群が,乾燥環境に適応分化したものとされている。しかし,マオウのように中央アジア,北アフリカ,アメリカ大陸と,広分布する乾燥適応的な植物もある。それでもマオウはオーストラリアや南アフリカの乾燥地には分布していない。ウチワサボテンの仲間が,オーストラリアに導入されてやっかいな雑草になった例や,アフリカ大陸のサバンナ地域の人工林のほとんどは,オーストラリア原産のユーカリになっていることでもわかるように,これらの植物は異なった地域の乾燥地では生育できないものではない。ただ地史的な歴史のなかで,他の乾燥地域に分布を広げる機会がなかったものであろう。
逆に地球上で最も湿潤な熱帯多雨林域の植物相を調べてみても,中南米とアフリカと東南アジアの三つの地域間で,生態系としての熱帯多雨林の森林構造はまったくよく似ているにもかかわらず,その森林を構成する樹種も,林床に生育する草も,樹幹や枝に着生する植物も,ひどく異なっている。この植物相としての違いは,大西洋,インド洋,太平洋という海によって,これら三つの湿潤熱帯域が隔離され,それぞれに独自な植物相が進化発展したためと考えられる。
植物相が問題とされる限定された地理的空間をとりあげ,植物相の構成を解析すれば,その地域で起源し現在でも限られた分布をしているか,あるいはその地域にだけ生き残った固有的な要素,その地域で起源したが他の地域にまで分布を拡大した要素,他の地域に分布の中心があり,そこから侵入してきた要素などに,分布型から分解できるだろう。
東アジアの辺縁に位置し,南北に長くつながる日本列島は,大陸との陸橋によってつながったり,海峡によって隔離されることを繰り返しながら現在に至っている。そのため時期や方角を異にした重層的な大陸からの移住,隔離による分化が繰り返されただけでなく,北半球温帯域では異例的な降水量の多さと,島としての地理的な隔離による保護効果によって,古型の原始的な植物群が生き残っている。さらに日本列島は,北は北海道山地の亜寒帯気候域から,南西諸島の亜熱帯気候域までの南北の広い生態領域に広がり,その点からも多様な植物相を有している。道管のない原始的な被子植物として有名なヤマグルマ,東アジア特産科のカツラやフサザクラ,日本特産科で1属1種のシラネアオイなどは日本列島を代表する残存固有的な古型の植物,すなわち生きている化石であろう。他方,多雨で温暖な日本の気候に適応して,もっぱら日本列島で種分化した群もある。そのなかには,いろいろなツツジ類,サクラ類,ツバキ,ユリ類,ギボウシ類,キスゲ類,それにアジサイやアオキのように世界的にも重要な観賞用園芸植物になっているものも多い。アザミ類,ササ類,ホトトギス類,カンアオイ類など,日本列島で多数の種を分化させた植物群もまた多い。
このような現在の日本列島の基層となった植物群は,約2000万年ほど前の中新世が始まるまでは,北極をとりまくように北半球に広く連続的に分布していた温帯系の第三紀周北極植物群であり,その構成要素の多くはブナ属に代表されるように,現在では東アジア,北アメリカ東岸,それにカスピ海からヨーロッパ域に隔離的に分布している。日本列島域では,中新世になって気候の冷涼,乾燥が繰り返され,かつては北方に分布していた第三紀周北極植物群の南下,侵入があった。さらに第四紀になると,日本列島域でも気候はさらに寒冷化して,氷期の低温期には寒冷気候に適応した新しい北方系の要素が南下し,また西方からは乾燥気候に適応した大陸系の植物群(満鮮要素など)の侵入があった。しかし温暖な間氷期には,暖温帯の照葉樹林帯を主たる住み場所とする南方系の植物群が北上した。最後の氷期であるウルム氷期の寒冷な時期には,西南日本低地までブナ林が降下し,気温は現在よりも6~7℃ほど低かったと推定されている。約1万年前に氷期が終わり,照葉樹林が水平距離では数百kmにもなる分布の拡大を行い,北方系植物群は衰退し山頂部に逃げこみ,隔離が起こった。また,弥生時代に稲作農業が日本でも開始されるとともに,大規模な人間による森林破壊が始まり,低地の自然林はほぼ消滅し,丘陵部にもアカマツ,コナラを主とする二次林が広がった。
このような植物相の移動が,地史的時間スケールでは繰り返されたが,日本列島の植物相の中心となるブナ林やそれに結びつく温帯系の植物群は,この変遷のなかでも日本列島域に生き続けただけでなく,日本海側の多雪地帯では,特殊な多雪条件に適応した植物群(日本海要素ともいい,ユキツバキ,ヒメアオキ,チャボガヤなど多い)を分化させた。また地理的な隔離によって形成されたと推定される地方固有種を分化させた群もあるし,農耕地に急速に分布を拡大しながら,地方的な変異を起こし分化していったと考えられる,日本特産の低地二倍体タンポポのようなものもある。
4000種にも及ぶ豊富な日本列島の植物相は,古型の生き残り,他地域からの侵入と分化だけでなく,日本列島で独自に進化した群を混えた重層的で複雑な構成からなっているのである。
→植物区系
執筆者:堀田 満
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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(垂水雄二 科学ジャーナリスト / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
一つの地域の植物の種類相をいう。具体的にはその地域の植物の総目録であり、動物相と並び生物相の一部をなす。
[大場達之]
…ある地方に生息する動・植物の種類組成をさす。動・植物に分けて動物相,植物相,さらに類別して,鳥相,哺乳類相,昆虫相,あるいは環境別にとらえて,森林動物相,ブナ林鳥類相,また潮間帯生物相などと限定できる。生物相は,何が(種類),どこに(地理分布),どんな環境に(生態分布),どのくらい(密度,生物量)いるかを明らかにし,さらに食物連鎖などによる群集構造としての把握,その系列におけるエネルギーの流れ(群集経済),種間の社会関係(群集機能)などの分析に進むために不可欠の基礎データである。…
※「植物相」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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