和歌山県北東端にある市。2006年3月旧橋本市と高野口(こうやぐち)町が合体して成立した。人口6万6361(2010)。
橋本市西端の旧町。旧伊都郡所属。人口1万4600(2005)。北は大阪府に接する。紀ノ川上流の北岸に位置し,町域は南から紀ノ川沿いの発達した河岸段丘,丘陵地,和泉山脈からなる。大和街道と高野街道の分岐点に当たり,高野山に登る紀ノ川の渡し場として発展,対岸の九度山と対向集落をなした。1908年国鉄(現JR)和歌山線の開通で高野参りの乗降地として栄えたが,24年開通の南海高野線は通らず,観光面では衰えた。紀ノ川に沿って国道24号線が通る。川上木綿の伝統を受け継いだ織物工業が基幹産業で,特にパイル織物を発展させたシール織物は有名で,海外へも輸出されている。重要文化財の三彩壺が名古曾で発掘された。北部はかつらぎ高野山系県立自然公園に含まれる。
執筆者:上田 雅子
橋本市中東部の旧市。紀ノ川が中央部を西流,その中流部北岸の河岸段丘面に市街地が形成されている。1955年市制。人口5万3929(2005)。古来,大阪方面から高野山への高野街道と,和歌山から大和への大和街道が十文字に交差し,かつ紀ノ川水運の河港でもあった。古くは市域西部に高野山領相賀(おうが)荘,北東部に石清水(いわしみず)八幡宮領隅田(すだ)荘があった。隅田荘荘官隅田氏は中世には武士団として勢力を伸ばしたが,その氏神とされたのが,人物画像鏡(国宝)で著名な隅田八幡宮である。橋本は天正年間(1573-92)後期に高野山の木食応其(もくじきおうご)が町場を開き,高野参詣の宿所としたのに始まる。応其は紀ノ川に130間の橋を架け,この地を橋本と名づけたという。塩売買の市の特権も認められて町は発展した。紀州藩は代官所や船改番所を置き,塩市も保護し,藩内で生産された塩はすべて橋本を経由して搬出されていた。神野々(このの)廃寺,古佐田廃寺など白鳳期の寺院跡があり,高野街道沿いの学文路(かむろ)は謡曲《高野物狂》,説経《苅萱》にまつわる伝説の地。大阪から紀見峠を越える高野街道は,紀見トンネルの開通で国道170号線となり,また大和街道も国道24号線として整備され,JR和歌山線,南海高野線も走り,現在も交通の要衝である。近年は大阪の近郊住宅地化が進んでいる。
執筆者:重見 之雄
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和歌山県北東部、紀の川両岸にまたがる市。1955年(昭和30)橋本町と隅田(すだ)、岸上(きしかみ)、山田、紀見(きみ)、学文路(かむろ)の5村が合併して市制施行。2006年(平成18)高野口町(こうやぐちちょう)を合併。1996年指定の橋本地方拠点都市地域の中心都市である。紀の川の河岸段丘と洪積段丘上に集落が広がる。段丘上には縄文・弥生(やよい)遺跡や陵山(みささぎやま)、市脇(いちわき)などの古墳が多く、畿内(きない)に接し南海道に沿って早くから開けた地域である。橋本の地名は、豊臣(とよとみ)秀吉から許されてこの地で塩市(いち)を開くなどした応其(おうご)(木食上人(もくじきしょうにん))が1587年(天正15)紀の川に橋を架けたのに始まる。橋は3年後に流失し、以来明治まで架橋はなかったが、交通の要衝として地名は続いた。南海道にかわった伊勢(いせ)街道(現、国道24号)と高野(こうや)街道(現、国道371号)が交わり、また紀の川の川上船の河港でもあり、紀伊藩政期には舟継問屋(といや)場、伝馬(てんま)所、御仕入役所などが置かれ、伊都(いと)郡の中心地となった。いまもJR和歌山線と南海電気鉄道高野(こうや)線が交わり、大阪への通勤圏内に入り大規模住宅開発が進んでいる。ほかに高野線に並行して国道370号が走り、京奈和自動車道「橋本道路」(高野口、橋本、橋本東の各インターチェンジ)が通じる。カキ・ブドウ栽培、養鶏や釣り竿(ざお)製造が盛ん。奈良県境の真土(まつち)(待乳)峠に近い隅田八幡神社(すだはちまんじんじゃ)は、日本最古の金石文を刻む国宝銅製仿(ぼう)製人物画像鏡で知られる。また八幡社別当職から台頭した中世武士団の隅田党(隅田一族)の氏寺の利生院護国寺(りしょういんごこくじ)もあり、本堂は国の重要文化財に指定されている。高野街道に沿う紀見峠には宿場跡があり、学文路には苅萱(かるかや)堂や紀州流土木の祖大畑(おおはた)才蔵の墓がある。面積130.55平方キロメートル、人口6万0818(2020)。
[小池洋一]
『『橋本市史』全3冊(1974~1975・橋本市)』▽『『橋本市史』全6巻(2001~2012・橋本市)』
京都府八幡(やわた)市の一地区。宇治(うじ)川、木津(きづ)川、桂(かつら)川が合流して淀(よど)川となる地の南岸に位置する。地名は、僧行基(ぎょうき)が対岸山崎(大山崎町)との間に架橋したという伝説に由来する。江戸時代には伏見(ふしみ)から大坂に向かう京街道の宿場として栄え、遊郭もつくられた。昭和半ばまで対岸とを結ぶ渡船場が残っていた。京阪電鉄本線の橋本駅がある。
[織田武雄]
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… 一方漁労民を贄人(にえびと)として組織化した内膳司領勢多御厨では,フナやフナずしを朝廷に貢進した。瀬田川東岸の,唐橋近在は中世には橋本と呼ばれ,その地の贄人は中世では橋本供御人として内蔵寮の被官となり,日次御贄(ひなみのみにえ)を御厨子所(みずしどころ)に,神供を内侍所に,日次供御コイ等を内膳司に備進した。このように橋本御厨は,内蔵寮頭を世襲した山科中納言家の荘園化していく。…
…木津川,宇治川,桂川の3川合流点に臨み,北岸の天王山と相対する。男山の北側一帯は幹線交通が集中する交通上の要衝で,北西麓の橋本は3川合流点北岸の山崎と並ぶ交通集落であった。橋本は京街道(大坂街道,京坂街道)の宿場町,淀川水運の河港として栄え,男山南部の洞ヶ峠を通る東高野街道も南北交通の要路であった。…
…八幡宮社士や神人も居住し,宿屋,両替屋,酒屋もあった。北西山麓の橋本は淀川水運の河港,宿場町としてにぎわった。橋本渡しは元来,石清水八幡宮への大山崎油神人(大山崎油座)の灯油エゴマ運送のために設けられた渡しであった。…
… 浜名湖の成因は,三方原,高師原,天伯原などの洪積台地の浸食谷が沈降や海面の上昇により沈水したのち,湾口を天竜川からの漂砂による砂州でふさがれたもので,南半部は砂質堆積物からなり,イカリ瀬,大瀬,八兵衛瀬などの浅瀬が多く,北半部は泥質堆積物からなり,水深も6~12mと深く沈水性を示している。外海とは砂州を切る浜名川が通じ,湖畔には旧東海道の橋本宿があった。1498年(明応7)の地震津波により砂州が破壊され,今切口の開口部が生じ汽水湖となった(今切渡)。…
※「橋本」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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