出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
生理学者。鳥取県に生まれる。東京帝国大学卒業。1914-18年ヨーロッパに留学,22年東京帝国大学教授。実験生理学を専攻し,生物電気の発生に関する研究が多い。40-43年近衛内閣・東条内閣の文相,44年教学練成所長をつとめた。国民学校令公布をはじめ一連の戦時教育政策の責任者で,芸術院創設や文化勲章制定にも当たった。敗戦直後自決。小学校の国民学校への改革は,国粋主義思想の鼓吹と科学技術政策の推進という戦時の国家要求を,義務教育制度の分野で具体化することをめざしていた。橋田がこの政策のイデオローグになったのは,彼が禅の研究を通して早くから説いていた,〈東洋精神〉と〈科学〉の学習とは矛盾するものではないとする特有の論法に,超国家主義国家の政治課題が結びついたからである。この方面の著書に《行としての科学》(1939),《正法眼蔵釈意》(1940)がある。
執筆者:中内 敏夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
生理学者、教育行政家。鳥取市生まれ。本姓を藤田といい、16歳のとき橋田家の養嗣子(しし)となった。1908年(明治41)東京帝国大学医科大学を卒業、同大学生理学教室助手となり、生理学を研究。1914年(大正3)ドイツ、スイスに留学、1918年に帰国、母校の生理学助教授となり、1921年医学博士号を取得、翌1922年教授に任ぜられた。生物電気の発生に関する実験を行い、多くの研究論文を発表した。1937年(昭和12)には第一高等学校長を兼任、1940年に第二次近衛文麿(このえふみまろ)内閣の文部大臣に就任、次の東条英機(とうじょうひでき)内閣でも留任し、この間に国民学校令の公布、『臣民の道』の刊行、「戦時家庭教育指導要項」や中学・高校の年限短縮の決定など、第二次世界大戦中の教育行政を担当し、1943年に退任した。戦後、戦犯の容疑を受け、昭和20年9月14日、服毒自殺した。
[大鳥蘭三郎]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…この研究生指導科は〈転向〉学生・生徒が減少した38年に活動を中止している。第2次大戦の激化とともに,研究機能よりも研修機能が重視され,43年11月に前年発足の国民錬成所と統合されて教学錬成所(初代所長橋田邦彦)に改組された。戦後,その施設や図書を含む什器類の多くは,国立教育研修所を経て,国立教育研究所に引き継がれた。…
※「橋田邦彦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...
4/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
4/12 デジタル大辞泉を更新
4/12 デジタル大辞泉プラスを更新
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新