檜隈大内陵(読み)ひのくまおおうちりよう

日本歴史地名大系 「檜隈大内陵」の解説

檜隈大内陵
ひのくまおおうちりよう

[現在地名]明日香村大字野口

野口のぐち集落西方の丘陵上に位置する壮大な古墳で、天武持統合葬陵に治定。大内陵は持統天皇元年一〇月、草壁皇子以下により築造され、翌二年一一月一一日天武天皇を葬り(日本書紀)、天皇として初めて火葬された持統天皇が大宝三年(七〇三)一二月二六日合葬された(続日本紀)。「延喜式」(諸陵寮)に「檜隈大内陵飛鳥浄御原宮御宇天武天皇、在大和国高市郡、兆域東西五町、南北四町、陵戸五烟」「同大内陵藤原宮御宇持統天皇、合葬檜隈大内陵、々戸更不重充」とある。古くはおう(皇)ノ墓とよばれたこの古墳は、江戸時代から明治初年にかけてはむしろ文武天皇檜隈安古岡上ひのくまのあこのおかのへ陵とみなされることが多かったが(天武持統合葬陵は現橿原市五条野町の丸山古墳にあてられていた)、明治一四年(一八八一)になってそれぞれ現在のように治定された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報