武家屋敷地(読み)ぶけやしきち

日本歴史地名大系 「武家屋敷地」の解説

武家屋敷地
ぶけやしきち

[現在地名]魚津市新宿しんじゆく新角川しんかどがわ二丁目・双葉町ふたばちよう

魚津城跡の外堀東側を中心に広がり、新川にいかわ郡代役所・魚津町奉行所および侍屋敷が所在する。北は川原かわら町・ひがし小路など、東は本江ほんごう村・大光寺だいこうじ村、南は八幡はちまん町・紺屋こんや町。天明五年(一七八五)魚津町惣絵図によると、郡代役所は古城東側を南北に走る通りに西面し、「役屋敷」とみえる。寛永一七年(一六四〇)から本保嘉右衛門が郡代および町奉行を兼務していたが、万治三年(一六六〇)に専任の郡代と町奉行に分れ、仙石勝左衛門が初代郡代、岡田十右衛門が初代町奉行を勤めた(「富田旧記」魚津町誌など)

武家屋敷地
ぶけやしきち

浜松藩家臣団の居住地。その原形徳川家康の浜松在城時にさかのぼるとされ、城下の基本的な縄張りは寛永期(一六二四―四四)の高力氏時代になされたと考えられる。元禄(一六八八―一七〇四)頃の青山家御家中配列図(浜松市博物館蔵)などによると浜松城の周辺七地区に置かれ、東海道筋の町屋を包み込むように配置されているほか、本坂通に沿っていた。同図によると武家屋敷総数は五四一軒で、城郭北東に元目げんもく東方早馬はやうま南方後道うしろみち白山下はくさんした愛宕下あたごしたがあり、城郭西側にはたか町、北西に武家屋敷の四割以上を占めた名残なごりがあった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報