出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
幕末の志士。水戸藩士跡部正続(あとべまさつぐ)の子。本家跡部正房の養子となり、跡部家の旧姓武田に復する。家禄(かろく)300石。名は正生(まさなり)、字(あざな)は伯道(はくどう)、通称彦九郎(ひこくろう)、修理(しゅり)、号如雲(じょうん)、致仕後耕雲斎。1864年(元治1)従(じゅ)五位下伊賀守(いがのかみ)に任ぜられる。1829年(文政12)徳川斉昭(なりあき)を水戸藩主に擁立、自らは参政となり、藤田東湖(ふじたとうこ)、戸田蓬軒(とだほうけん)らとともに改革政治に活躍した。1844年(弘化1)斉昭が幕府から致仕謹慎を命ぜられるとその雪冤(せつえん)運動に奔走して罰せられ、幽閉5年、許されて参政に復した。水戸藩内の天狗(てんぐ)派・諸生派の対立が激しくなり、藩主徳川慶篤(よしあつ)の目代として分家松平頼徳(よりのり)が鎮撫(ちんぶ)に赴く際耕雲斎も同行したが、諸生派と幕府の連合軍に拒否されて戦端を開き敗北した。1864年(元治1)尊攘(そんじょう)激派天狗党の藤田小四郎(ふじたこしろう)らの筑波(つくば)挙兵に行をともにした。同勢1000余名と上洛(じょうらく)の途中、越前国(えちぜんのくに)(福井県)新保(しんぼ)で加賀藩に降伏、敦賀(つるが)で刑死した。墓は敦賀市と水戸市貝川町妙雲寺にある。
[秋山高志]
『大内地山著『武田耕雲斎詳伝』全2巻(1936・協文社)』
(吉田昌彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
幕末尊攘派の水戸藩士。名は正生(まさなり),通称は彦九郎,伊賀。耕雲斎は号。徳川斉昭の藩主擁立に尽力して以来,藩政改革派の重臣として活躍し,斉昭辞職後その雪冤に奔走し一時罷免されたが,のち許されて1856年(安政3)執政となる。64年(元治1)藤田小四郎らが筑波山に挙兵するや,筑波勢を助けてその首領となる(天狗党の乱)。戦略は功を奏せず,同志を率いて上京の途次,加賀藩に降伏,翌年幕府により敦賀で斬に処せられた。
執筆者:鈴木 暎一
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1804~65.2.4
幕末期の水戸藩の執政。水戸藩士跡部正続(まさつぐ)の長男。のち本姓武田に復す。名は正生(まさなり),通称彦九郎・修理。致仕後耕雲斎と号した。藩主に徳川斉昭(なりあき)を擁立以来,改革派の重臣として活動。斉昭の謹慎・復職に応じて致仕・昇進したが,1856年(安政3)執政となる。62年(文久2)に一橋慶喜(よしのぶ)の上洛に随従。64年(元治元)1月伊賀守。藤田小四郎ら天狗党の筑波山挙兵により5月に執政を罷免された。市川三左衛門ら門閥派政権に対抗して10月に筑波勢と合流,天狗党を再編してその首領となり,京都に向けて西上の途についた。途中諸藩兵や大雪・寒気と戦う難行に力つき,金沢藩に降伏し,65年(慶応元)2月4日,敦賀(つるが)で斬刑に処せられた。
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…幕府が諸藩に追討を命ずると,諸生党の天狗党攻撃も激化し,しだいに水戸藩内の党争の色彩をつよめた。窮地に立った天狗党は,在洛中の一橋慶喜を頼り武田耕雲斎を主将として大挙西上するが,途中で加賀藩に降伏して拘禁された。翌年2月の武田,藤田,田丸以下350人を超える死刑をはじめとし,大量の犠牲者を出した。…
※「武田耕雲斎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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