ロシアの作家ゴーゴリの長編小説。作者の代表作であり、19世紀ロシア小説の傑作の一つでもある。三部作になる予定であったが、完全な形で残っているのは第1部(1842刊)のみ。一種のピカレスク小説で、死んだ農奴(当時「魂」とよばれていた)を安値で買い集め、生きた者として登記し、これを抵当に国庫から金を借りて外国へ高飛びしようという目的で、ほうぼうの地主を歴訪するチチコフという山師の遍歴が全編の骨子になっている。この簡単な筋は、典型的な性格を造型するためのいわば枠組みにすぎず、この小説の不滅の価値は、主人公をはじめとするさまざまなタイプの地主や地方官僚たちのグロテスクでしかもきわめてリアルな人物形象のみごとさにある。これらの形象を通じて作者は、当時のロシア社会の病弊を余すところなく摘発すると同時に、人生そのものに必然的に付きまとう卑俗さを描き出そうとしたのである。
作者は第1部刊後、主人公の悔悟と更生を描くはずの第2部の執筆にとりかかったが、第1部の末尾にもすでにその徴候のほのみえる、ロシアの「霊的」指導者たらんとする一種の使命観に災いされて成功せず、二度にわたり草稿を破棄(1845、52)したため、不完全な未定稿の断片(1853死後刊)が残るのみである。
[木村彰一]
『平井肇・横田瑞穂訳『死せる魂』(岩波文庫)』▽『木村彰一訳「死せる魂」(『世界の文学11』所収・1965・中央公論社)』
ロシアの作家ゴーゴリの長編小説。完成(1841)までに7年が費やされた。第2部も書かれたが未完に終わった。当時のロシアでは死んだ農奴も次の戸籍調査(10年ごとに実施)までは有価物件として課税の対象とされたため,山師チチコフが地主たちから二束三文で死んだ農奴を買い集め,それを抵当に銀行から多額の金を借りて大儲けをたくらむ話である。しかし,作品のおもしろさは筋にあるのではなく,チチコフや地主たちひとりひとりの描写にある。無類の空想好き,大ぼら吹きの性格破産者,粗野な大食漢,恐るべき守銭奴,愚鈍ながらも金には抜け目ない女地主といった〈死んだ魂〉の持主たちの肖像が,作者一流の拡大した細部を積み重ねる手法によってみごとに活写されており,ロシア・リアリズムを代表する作品となっている。ロシア語のdushi(魂)は〈農奴〉の意味でも用いられ,標題は《死せる農奴》とも解される。日本への紹介は森田草平の英訳からの重訳(1917)が早いが,原典からの訳は意外に遅く,上田進のもの(1934)が最初である。
執筆者:灰谷 慶三
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…しかし,官僚社会の悪を徹底的に暴いた戯曲《検察官》(1836初演)が賛否の激しい論争を巻き起こしたため,ゴーゴリは外国旅行に出た。以後1836年から48年に至る12年間を外国,とくにローマで過ごし,1835年から執筆を始めていた生涯の大作《死せる魂》第1部(1841)の完成に没頭するとともに,小説《ローマ》(1841),エッセー《芝居のはね》(1842),戯曲《結婚》(1842),前記の《外套》などを書いた。ところが,悪のいっさいを描いた《死せる魂》の完成ころから,〈悪〉のみを描く自己の存在に疑念を抱くようになり,自分の魂を浄化しなければならぬという考えにとりつかれて宗教的・神秘的世界にのめりこんでいき,ロシアの専制政府を擁護するエッセー《友人との往復書簡選》(1847)を刊行,一方で悪人の更生を目指した《死せる魂》第2部を書いたものの成功せず,原稿を焼却した後に錯乱状態で断食に入り,そのまま10日後に没した。…
※「死せる魂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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