死は古くからしばしば骸骨の姿で表象された。そして疫病に襲われると,人びとの間では死の恐怖から逃れるために集団舞踏の現象が起こることもあった。とくに14世紀末ヨーロッパのペスト(黒死病)被災地では,人びとは群れをなし,ときには全村あげて,半狂乱になって踊り狂ったという。15世紀になると,ペストを退散させるお祓の行事にかたちを変えていった。たとえば1433年のフィレンツェでは車の上に大鎌を持った〈死〉が立ち,まっ黒な衣装に骸骨を白く描いた〈死者〉が墓からあらわれ,〈苦しみ,嘆き,悔いよ〉と歌い,車の前後の従者はしゃれこうべを描いた黒い旗と十字架をかざし,〈主よ,憐れみたまえ〉と唱和しながら練り歩いたという。また,男女のペアが交互に地上に倒れ,その〈死〉を悼み笑う〈ダンス・マカブルdanse macabre〉という娯楽的な踊りが流行した。
やがて〈死の舞踏〉は,〈メメント・モリmemento mori(死を想え)〉を基調とする中世末期の終末観を表現する主要な芸術的モティーフとなる。生者と骸骨で表された〈死者〉とが手をとり合っている図像が,聖堂のフレスコやステンド・グラスを飾り,また都市の広場に建てられた〈ペスト塔〉にも刻まれた。ドイツ・ルネサンスの画家デューラーやホルバインがこのモティーフで名作をのこした。一方,死の恐怖を表した当時の旋律は,後世のリストの《死の舞踏》などの名曲にそのなごりをとどめている。
→骸骨 →死
執筆者:立川 昭二
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…しかし,この大聖堂はフランスでのマリア信仰の中心地として多くの信者を集め,また,中世における指折りの巡礼地であったスペインのサンチアゴ・デ・コンポステラに至る重要な道筋のひとつとして,巡礼が列をなしたという。なお,オーベルニュ地方東端のラ・シェーズ・ディウ修道院付属教会には,内陣裏手に〈死の舞踏〉の壁画があり,中世末の時代精神をみごとに表現した作品として名高い。
[オーベルニュ人気質]
山里に生きるオーベルニュの人々は,しんぼう強い剛毅の人として知られていた。…
…死の擬人化または死神はギリシアのタナトス,《ヨハネの黙示録》の蒼白い馬に乗って黄泉(よみ)を従える〈死〉,古代ノルマンのイムル,インドの死者の神ヤマなどあるが,いずれも骸骨の形をとっていない。ペストその他の流行病がヨーロッパを席巻した13,14世紀ごろには〈死を思え(メメント・モリ)〉の考えが盛んになり,〈3人の死者と3人の生者〉〈死の舞踏(ダンス・マカブル)〉のテーマが現れて,これを造形化する際に骸骨を使うことが頻繁となった。ただし,パリのイノサン墓地回廊の壁画〈死の舞踏〉(1424)をG.マルシャンが写して木版画集とした絵は,骸骨が人間と対になっていてその人の死後の姿を示している。…
…孔子や仏陀やキリストなどの活躍した古代世界においては,死をいわば天体の運行にも似た不可避の運命とする観念が優勢であったが,これにたいして中世世界は死の意識の反省を通して〈死の思想〉とでもいうべきものの発展をみた時代であった。例えばJ.ホイジンガの《中世の秋》によれば,ヨーロッパの中世を特色づける死の思想は,13世紀以降に盛んになった托鉢修道会の説教における主要なテーマ――〈死を想え(メメント・モリmemento mori)〉の訓戒と,14~15世紀に流行した〈死の舞踏〉を主題とする木版画によって象徴されるという。当時のキリスト教会が日常の説教で繰り返し宣伝していた死の思想は,肉体の腐敗という表象と呼応していた。…
…一方,西欧ではどくろを死の象徴としたのは遅く,15世紀になってからである。当時,〈死を想え(メメント・モリ)〉の思想と〈死の舞踏(ダンス・マカブル)〉の絵とが人々をとらえ,パリのイノサン墓地では,回廊の納骨棚にさらされた多数のどくろやその他の骨が人々に死が来るのは必定であること,したがっていたずらに生の歓びをむさぼることの空しいことを説いていた(ホイジンガ《中世の秋》)。デューラー,ホルバイン兄弟らが好んでどくろや骸骨を描いたのは15世紀末以降のことである。…
※「死の舞踏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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