日本大百科全書(ニッポニカ) 「水の江滝子」の意味・わかりやすい解説
水の江滝子
みずのえたきこ
(1915―2009)
女優、芸能プロデューサー。本名三浦ウメ。北海道生まれ。1928年(昭和3)東京松竹楽劇部(後の松竹少女歌劇団、松竹歌劇団)の第1期生として入団。芸名は万葉集のなかから、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の「あしかものさわぐ入江の水の江の 世に住みがたき我が身なりけり」からとって水の江たき子としたが、1930年に滝子と改めた。同年9月、浅草松竹座での『松竹オンパレード』で、司会役の紳士に扮(ふん)した際、他に先駆けて断髪姿で登場、一躍評判となり「男装の麗人」なる流行語も生れた。翌1931年11月、新宿新歌舞伎座(かぶきざ)での『万華鏡』では、カウボーイの役を演じ、拳銃(けんじゅう)を構えて「俺(おれ)はミズノーエ・ターキーだあ」と見得を切ったのが受けて、以後「ターキー」の愛称でよばれるようになり、颯爽(さっそう)とした男役ぶり、ダイナミックな演技で人気を不動のものにした。1933年の6月、浅草松竹座での『真夏の夜の夢』公演中に楽団員の待遇改善要求に端を発した争議が本格化、歌劇部員も合流してのストライキに発展、水の江が闘争委員長となり、ジャーナリズムに「桃色争議」と書き立てられた。同年10月の争議解決後、水の江がパリの伊達男(だておとこ)に扮した『タンゴ・ローザ』は松竹レビュー始まって以来の傑作といわれ、計160回という上演新記録を打ち立てた。1939年5月、芸術親善使節として渡米、各地で歌や踊りを披露した。
1942年に松竹少女歌劇団を退団して「劇団たんぽぽ」を結成、翌1943年1月に東京丸の内の邦楽座で旗揚げ、数々の優れた音楽喜劇を上演して女優としての新境地を開いた。しかし、途中で有力座員の大部分が抜けたのが致命傷となり、1948年1月に解散した。映画への初出演は1946年1月に封切りの松竹映画『グランド・ショウ一九四六年』だったが、劇団解散後は単独でミュージカル・ショーの舞台や各種映画にも出演するなどして活躍を続けた。1958年6月、浅草国際劇場で『さよならターキー・輝く王座』と題して盛大に引退興行を行った。その後はテレビ出演のかたわら、プロデューサーとして石原裕次郎ら多くのスターを育てたほか、映画やテレビ番組の制作にも従事した。また装飾品のデザイナーとしても知られる。1993年(平成5)2月19日の満78歳の誕生日前日に生前葬を行った。著書に『ターキー放談笑った、泣いた』(1984)などがある。
[向井爽也]
『『華麗なる三婆――文句があったら言ってみな』(1982・山手書房)』▽『『ターキー放談笑った、泣いた』(1984・文園社)』▽『『水の江滝子のジュエリーメーキング』(1988・山海堂)』▽『『ひまわり婆っちゃま』(1988・婦人画報社)』▽『『みんな裕ちゃんが好きだった――ターキーと裕次郎と監督たち』(1991・文園社)』▽『『ターキーの気まぐれ日記』(1998・文園社)』