江田三郎(読み)えださぶろう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「江田三郎」の意味・わかりやすい解説

江田三郎
えださぶろう
(1907―1977)

政治家岡山県出身。東京商科大学(現一橋大学中退。1931年(昭和6)全国大衆党に入党、岡山の農民運動に参加した。1937年岡山県会議員に当選するが、翌年人民戦線事件で検挙され、1941年秋出獄。2年後思想犯前歴者の「南方送り」から逃れるため中国に渡る。1946年(昭和21)帰国し日本社会党に入党、農民運動に復帰。1950年参議院選挙で当選、1963年から衆議院議員。党内では当初左派に属し、1960年書記長となる。しかし同年浅沼暗殺事件後、委員長代行として構造改革論を党の新路線として打ち出し、党内左派の反撃を受ける。以後2回の委員長選挙で敗退、書記長、副委員長を務めた。1970年代に入ると反共中道の野党再編論のリーダーとなり、1976年「新しい日本を考える会」を結成、1977年離党して社会市民連合社会民主連合前身)を発足させるが、その直後急死した。

[荒川章二]

なお、長男の五月(さつき)は参議院議長を務めた。

[編集部]

『『私の履歴書 第18集』(1963・日本経済新聞社)』『『江田三郎――そのロマンと追想』(1979・同書刊行会)』

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百科事典マイペディア 「江田三郎」の意味・わかりやすい解説

江田三郎【えださぶろう】

政治家。岡山県出身。東京商科大学(現,一橋大学)中退。1937年岡山県議となるが,翌年第2次人民戦線事件で逮捕。第2次大戦後,県議を2期務めたあと,1950年日本社会党から参議院議員に当選(1963年からは衆議院議員),1960年書記長となる。〈構造改革論〉を主唱し,1962年〈江田ビジョン〉を発表して新社会主義像を提示したが,党内左派から批判を浴びた。3度委員長候補となるが,3度とも不選出。社公民路線を主張し,1977年に離党して社会市民連合(のちの社会民主連合)を発足させた。衆議院議員江田五月は長男。
→関連項目佐々木更三

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「江田三郎」の意味・わかりやすい解説

江田三郎
えださぶろう

[生]1907.7.29. 岡山
[没]1977.5.22. 東京
政治家。東京商科大学を中退し農民運動に投じる。 1950年参議院議員に当選,60年日本社会党書記長となり安保,三池闘争を指導。委員長浅沼稲次郎の暗殺後委員長代行として総選挙の陣頭に立った。構造改革論を唱え党内論争を提起したが,62年の「江田ビジョン」が左派からの批判を浴び,書記長を辞任した。以来党のマルクス=レーニン教条主義からの脱却,現実路線による社会主義政権の実現を主張したが,左派優位の党内では反主流,少数派にとどまった。この間,63年衆議院に転じ,党では副委員長,書記長を歴任。 77年3月に社会党を去り,新党「社会市民連合」を結成。その直後に急死した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「江田三郎」の解説

江田三郎 えだ-さぶろう

1907-1977 昭和時代の政治家。
明治40年7月22日生まれ。江田五月の父。昭和21年社会党に入党,25年参議院議員(当選2回)。35年書記長となり同年の浅沼稲次郎委員長の暗殺事件後委員長代行。新しい社会主義をめざす構造改革論を提案。38年衆議院議員(当選4回)。党内左派の攻撃をうけ,52年離党。社会市民連合結成直後の同年5月22日死去。69歳。岡山県出身。東京商大(現一橋大)中退。著作に「日本の社会主義」など。

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