日本歴史地名大系 「池の浦合戦場跡」の解説
池の浦合戦場跡
いけのうらかつせんじようあと
[現在地名]柳井市大字阿月 池の浦
文治元年(一一八五)西海で展開された源平合戦は周防にも波及したが、梶原景時の使者が鎌倉に帰着して戦況を報告したなかに「周防国合戦之時、白旗一流出現于中虚、暫見御方軍士眼前、終ニ収雲膚畢」とある(「吾妻鏡」四月二一日条)。この合戦の地は不明であるが、「注進案」は池の浦について「此処ハ昔大池あり、仍て池ノ浦と云、此池ハ大座山の梺にして、東面ハ海辺にて卯の方ハハコ島キス島カケス島大ミナセ小ミナセ、遠くハ伊予の青島、辰巳ハ平群島、寅卯ハ大島にて、以上之島間に見ゆるハ皆伊予路にして、総て島々の間往来の船路にて眺望面白き処也」と記し、さらに次のように述べる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報