池田 純久(読み)イケダ スミヒサ

20世紀日本人名事典 「池田 純久」の解説

池田 純久
イケダ スミヒサ

大正・昭和期の陸軍中将 極東軍事裁判弁護人。



生年
明治27(1894)年12月15日

没年
昭和43(1968)年4月29日

出生地
大分県

学歴〔年〕
陸士〔大正5年〕卒,陸大〔大正12年〕卒

経歴
大正12年軍務局勤務、昭和4年東京帝大経済学部に派遣され、7年軍務局に復帰。総動員業務に従事、国策研究会に革新政策の立案を要請するなど新官僚との交流を広げた。9年に陸軍省新聞班が発表した陸軍パンフレットは彼の執筆という。支那駐屯軍参謀を経て12年8月資源局第1課長、10月企画院調査官。15年奉天特務機関長、17年関東軍参謀副長、19年中将、20年内閣総合計画局長官となった。戦後、極東軍事裁判弁護人を務め、松竹顧問、エチオピア顧問団団長を歴任した。著書に「軍事行政」「陸軍葬儀委員長」「日本の曲り角」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「池田 純久」の解説

池田純久 いけだ-すみひさ

1894-1968 大正-昭和時代前期の軍人
明治27年12月15日生まれ。陸軍で軍務局畑をあゆみ,国家総動員体制づくりなどに中心的役割をはたす。昭和17年関東軍総参謀副長,19年陸軍中将。戦後,東京裁判弁護人をつとめた。昭和43年4月29日死去。73歳。大分県出身。陸軍大学校卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の池田 純久の言及

【統制派】より

…永田鉄山,東条英機,片倉衷らがその中心と目される。1933年11月,池田純久らの幕僚将校が,急進青年将校の横断的運動をやめさせようと,そのリーダーたちと会見し,ものわかれに終わったのが反皇道派グループ登場の契機とみられる。さらに皇道派の中心荒木貞夫陸相が,しだいに陸軍内の信望を失墜し,34年1月退陣。…

【矢次一夫】より

…1921年(大正10)協調会に入り,25年労働事情調査所を創立して〈《労働週報》〉を発刊,野田醬油争議共同印刷争議日本楽器争議などの大争議の調停にあたる。しだいに無産運動家から軍人に至る幅広い人脈をつかみ,33年(昭和8)には,統制派の幕僚池田純久少佐と結んで国策の立案に着手,官僚,学者,社会運動家,政治家などを集めて国策研究会をつくり,37年には改組して組織の拡大を図った。第2次大戦後公職追放されたが,講和後53年に国策研究会を再建,56年実業家・評論家などを組織して台湾を訪問,翌57年には日華協力委員会を設立して常任委員となり,58年には岸信介首相の個人特使として李承晩韓国大統領と会談,日韓国交正常化後の69年には日韓協力委員会をも設立するなど,台湾・韓国との交流に尽力した。…

※「池田 純久」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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