沢村 四郎五郎(4代目)(読み)サワムラ シロゴロウ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 の解説

沢村 四郎五郎(4代目)
サワムラ シロゴロウ


職業
歌舞伎俳優

本名
西尾 多吉

旧名・旧姓
代田 多吉

別名
初名=実川 雁五郎

屋号
紀伊国屋

生年月日
文久2年 8月16日

出生地
大坂(大阪府)

経歴
初代実川延若の門に入り、実川雁五郎と名乗って上方舞台で修業する。明治18年師と共に名古屋に行き、4月尾張若宮芝居「小笠原実記」に勤め、大阪へ戻ったが、同年9月師が没したので、名古屋の舞台に勤めていた4代目助高屋高助門人(養子の説あり)となる。19年名古屋新守座「島為朝八丈島」で4代目沢村四郎五郎を襲名し、代官佐太夫役をつとめる。のち名古屋の新守座・宝生座・末広座などに勤め次第に名をあげ、27年中山喜楽の媒酌で嵐三之助の娘・みつと結婚し婿養子となる。31年名古屋役者として坂東知鶴らと共に東京に行き、寿座「早苗鳥伊達聞書」に3役を勤めた。32年同座「仮名手本忠臣蔵」の定九郎役で好評を博し、のち忠臣蔵物を新富座・東京座・歌舞伎座・宮戸座などで上演する。その後、東京の真砂座・宮戸座などに勤めたが、37年養父の危篤で名古屋に戻る。以後、名古屋末広座付の俳優として座頭も勤め、名古屋を中心に活躍した。43年肺を患い、翌44年死去。背が高く、実事を兼ね、敵役を得意とした。

没年月日
明治44年 4月2日 (1911年)


沢村 四郎五郎(5代目)
サワムラ シロゴロウ


職業
歌舞伎俳優

本名
沢野 乙吉

生年月日
明治10年 9月15日

出身地
東京日本橋馬喰町

経歴
11歳の時、高砂屋福助の門に入り女形初舞台。のち沢村宗十郎のもとで長く帝国劇場の舞台に立つ。大正3年、創立したばかりの天活に迎えられ、「河内山宗俊」「曽我十番斬」「西遊記」などに出演、天活スターとなる。10年松竹キネマ蒲田撮影所へ移り、天活時代から出演していた吉野二郎監督の作品を中心に活躍した。「日光の円蔵」が最後の作品となった。

没年月日
昭和7年 8月27日 (1932年)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 の解説

沢村 四郎五郎(4代目)
サワムラ シロゴロウ

明治期の歌舞伎俳優



生年
文久2年8月16日(1862年)

没年
明治44(1911)年4月2日

出身地
大阪

本名
代田 多吉

別名
初名=実川 雁五郎

屋号
紀伊国屋

経歴
初代実川延若の門に入り、実川雁五郎と名乗って上方の舞台で修業する。明治18年師と共に名古屋に行き、4月尾張若宮芝居「小笠原実記」に勤め、大阪へ戻ったが、同年9月師が没したので、名古屋の舞台に勤めていた4代目助高屋高助の門人(養子の説あり)となる。19年名古屋新守座「島為朝八丈島」で4代目沢村四郎五郎を襲名し、代官佐太夫役を勤める。のち名古屋の新守座・宝生座・末広座などに勤め次第に名をあげ、27年中山喜楽の媒酌で嵐三之助の娘・みつと結婚し婿養子となる。31年名古屋役者として坂東知鶴らと共に東京に行き、寿座「早苗鳥伊達聞書」に3役を勤めた。32年同座「仮名手本忠臣蔵」の定九郎役で好評を博し、のち忠臣蔵物を新富座・東京座・歌舞伎座・宮戸座などで上演する。その後、東京の真砂座・宮戸座などに勤めたが、37年養父の危篤で名古屋に戻る。以後、名古屋末広座付の役者として座頭も勤め、名古屋を中心に活躍した。43年肺を患い、翌44年死去。背が高く、実事を兼ね、敵役を得意とした。


沢村 四郎五郎(5代目)
サワムラ シロゴロウ

明治〜昭和期の歌舞伎俳優



生年
明治10(1877)年9月15日

没年
昭和7(1932)年8月27日

出身地
東京日本橋馬喰町

本名
沢野 乙吉

経歴
11歳の時、高砂屋福助の門に入り女形で初舞台。のち沢村宗十郎のもとで長く帝国劇場の舞台に立つ。大正3年、創立したばかりの天活に迎えられ、「河内山宗俊」「曽我十番斬」「西遊記」などに出演、天活スターとなる。10年松竹キネマ蒲田撮影所へ移り、天活時代から出演していた吉野二郎監督の作品を中心に活躍した。「日光の円蔵」が最後の作品となった。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus の解説

沢村四郎五郎(5代) さわむら-しろごろう

1877-1932 明治-昭和時代前期の歌舞伎役者,映画俳優
明治10年9月15日生まれ。3代中村福助(のち2代中村梅玉)の門から7代沢村訥子(とっし)に入門。大正3年5代四郎五郎を襲名。5年映画俳優に転じ,日活の尾上(おのえ)松之助と人気を二分した。昭和7年8月27日死去。56歳。東京出身。本名は沢野乙吉。初名は中村福次。前名は沢村国之助。俳名は三鵆。屋号は紀伊国屋。

沢村四郎五郎(4代) さわむら-しろごろう

1862-1911 明治時代の歌舞伎役者。
文久2年8月16日生まれ。初代実川(じつかわ)延若の門から,名古屋の4代助高屋(すけたかや)高助の門にはいり,明治19年4代四郎五郎を襲名。27年嵐三之助の婿養子となり,のち名古屋末広座の座頭をつとめた。明治44年4月2日死去。50歳。大坂出身。本名は代田多吉。初名は実川雁五郎。屋号は紀伊国屋。

沢村四郎五郎(2代) さわむら-しろごろう

?-1832 江戸時代後期の歌舞伎役者。
寛政8年3代沢村宗十郎の門にはいり,文化5年2代四郎五郎を襲名。江戸で敵役として活躍し,老役(ふけやく)もかねた。天保(てんぽう)3年7月6日死去。初名は荻野東蔵。前名は沢村藤蔵。後名は沢村東十郎。俳名は春風,遮莫。屋号は川滝屋,紀伊国屋。

沢村四郎五郎(3代) さわむら-しろごろう

?-? 江戸時代後期の歌舞伎役者。
市川源太左衛門(2代市川友蔵)の子。7代市川団十郎に入門,天保(てんぽう)9年(1838)3代四郎五郎を襲名。二枚目敵を得意とした。初名は市川団子。前名は市川子之助,3代市川友蔵,初代市川団九郎。俳名は市升,遮莫。屋号は三河屋,川滝屋。

沢村四郎五郎(初代) さわむら-しろごろう

助高屋高助(すけたかや-たかすけ)(2代)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の沢村 四郎五郎(4代目)の言及

【時代劇映画】より

…松之助映画は1911年に始まった〈立川文庫〉に取材したものが多く,はでな忍術合戦や立回りを見せ場に,豪傑,剣客,義賊,忠臣,俠客などの活躍を描いた。14年創立の天活(天然色活動写真株式会社)では,日活の尾上松之助に対抗して沢村四郎五郎をスターとして押し立て,吉野二郎監督のもとに同工異曲の作品を量産,さらに数々のスターを生んだ。
[時代劇の語源]
 このブームの中で〈旧劇〉は〈時代劇〉に変貌していくのだが,変貌の核心となったのは,旧劇の魅力の中心である立回り=チャンバラ(刀で斬り合う音や状態を表す〈ちゃんちゃんばらばら〉の略)の近代化で,当時,大人気を博したフランスやアメリカの連続活劇や1917年創立の新国劇における迫真的な立回りの影響によって,スピード感のあるリアルなチャンバラが映画に現れた。…

【日本映画】より


[日本最初のカラー映画]
 14年,日活につづく映画大企業として,天然色活動写真株式会社(天活)が生まれた。これは,日活成立後まもなく日活を脱退し,それぞれに映画製作を始めた旧福宝堂系の小林喜三郎と山川吉太郎が創立した会社で,沢村四郎五郎(1877‐1932),市川莚十郎を主役に日活の松之助映画と同様の旧劇を量産するとともに,新派の連鎖劇に力を入れた。また,ごく初期だけのことながら,その社名にふさわしくカラー映画の製作を目ざし,日本最初のカラー劇映画の試作品《義経千本桜》(1914。…

※「沢村 四郎五郎(4代目)」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」