津久毛橋(読み)つくもばし

日本歴史地名大系 「津久毛橋」の解説

津久毛橋
つくもばし

鎌倉期よりみえる橋の名で、三迫さんのはさま川に架かる橋として平形ひらかたにあったとするが未詳。「観蹟聞老志」に、平形村の東から岩崎いわざき村へ渡る橋とあり、これによれば同川は現流路より北を流れていたと思われる。また郷人は江浦藻つくも橋と称したという。「吾妻鏡」文治五年(一一八九)八月二〇日条によれば、源頼朝軍は平泉藤原氏の兵を津久毛橋辺りまで追詰めているが、同地を逃れた兵は平泉で勢力を整えていると予想し、一、二千騎では心もとないので、二万騎の軍兵を用意すべきと戦術を練っている。同月二一日条には頼朝軍は松山まつやま道を経て、津久毛橋に着いているが、このとき家臣梶原景高は「陸奥の勢ハ御方ニ津久毛橋渡して懸ン泰衡カ頸」と祝歌を作っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報