江戸浅草に設けられた江戸幕府最大の米蔵。年貢米の収納や幕臣団への俸禄米支給など,米穀出納を取り扱った幕府財政の中心機関で,大坂,京都二条のそれとあわせて三御蔵と称された。1620年(元和6)創設。町年寄樽屋藤左衛門元次が設計し,隅田川右岸の湾入部(現,東京都台東区蔵前1・2丁目)を埋め立て,川側344間(約625m)の間に8本の船入り堀を設けて,総面積3万6648坪(約12ha)の敷地が造成された。ここに天明年間(1781-89)までに51棟254戸前の大倉庫群が建設され(のち67棟まで増設),毎年30万~40万石の米穀が出納された。管轄は勘定奉行配下の蔵奉行が当たり,御蔵手代,門番,蔵番や小揚人足らが所属した。西側の町地を蔵前と呼び,旗本,御家人の俸禄米を受領,売却する札差や米問屋ら大商人が軒を連ねていた。また川に面した中央部には名松首尾の松があり,安藤広重や葛飾北斎がこれを描いている。維新後明治政府に引き継がれ,関東大震災で焼亡した。
執筆者:北原 進
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幕府直臣団(じきしんだん)である旗本・御家人に対する切米(きりまい)・扶持米(ふちまい)の支給を主な役割として、日本最大の収容量を誇った江戸幕府管理の米蔵。1620年(元和6)の創建といわれ、隅田川川端を埋め立て、丹沢(たんざわ)山の材木や敷石が切り出されて建造された。寛政期から天保期にかけては54棟270戸前(とまえ)の規模を保ち(敷地総面積は3万9088坪、御蔵総建坪は8060坪)、蔵奉行(浅草蔵奉行)、蔵手代をはじめとする諸役人が出納の任にあたった。蔵奉行は、4~12人程度が任命されたが、収納された年貢米が、とりわけ江戸前期にあっては兵糧米(ひょうろうまい)としての性格を強く持っていたため、蔵奉行の全員が番方である大番(おおばん)から任命された(大番出役(でやく))。そして、1687年(貞享4)以降におよそ半数が勘定所役人などの役方から任命されるようになるが、大番出役の形態は江戸期を通して継続された。蔵奉行が支配した米蔵は、浅草御蔵のほかに本所(ほんじょ)御蔵があったが、この2つの米蔵の合計収納米量は1837年(天保8)から1841年の5か年の平均で46万6000石余、渡り高は42万8000石余であった。
[飯島千秋]
『飯島千秋著『江戸幕府財政の研究』(2004・吉川弘文館)』
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浅草御米蔵とも。江戸幕府が1620年(元和6)江戸浅草橋の近くに設置した倉庫。大坂・京都二条とともに三御蔵と称される。御蔵の管理や収支にあたるため36年(寛永13)に浅草蔵奉行がおかれ,勘定奉行の支配下に入った。浅草御蔵にはおもに全国の幕領の年貢米や買上米を回漕して収納し,収納米は旗本・御家人の切米(きりまい)として支給。御蔵の諸経費は,蔵前入用という付加税として幕領の農民に賦課した。御蔵の前の1区画をとくに蔵前とよび,火除明地(ひよけあきち)が設けられたほか,切米の委託販売を行う札差が蔵宿(札差宿)を設けて営業した。
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…また,幕藩制時代には幕府や藩へ納めるための年貢米を収めておくため生産地と城下町に御蔵(おくら)を設けた。江戸は浅草や本所に御蔵があり,浅草御蔵では戸口(戸前(こまえ)と呼ぶ)を2~5ヵ所つけた大きな蔵が54棟も並び,年貢米を収納した。各藩は城下町のほかに,産米の売りさばきのため,大坂堂島川の中之島あたりに蔵屋敷を設けた。…
※「浅草御蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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