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(浅野長孝)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
最後の広島藩主。浅野一族懋昭(としてる)の長子として生まれる。幼名長興(ながおき)、茂勲(しげこと)。青山内証(ないしょう)分家長訓(ながみち)の養子となり、1858年(安政5)分家を継ぎ近江守(おうみのかみ)を称す。1862年(文久2)長訓が広島藩を継いだため本藩の世子となり、藩主にかわって国事に奔走する。1867年(慶応3)9月薩長(さっちょう)2藩と三藩挙兵討幕の盟約を結びながら、土佐藩の公議政体論にも共鳴し、将軍徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還を勧告した。また、王政復古になると議定(ぎじょう)として小御所(こごしょ)会議に出席、山内豊信(やまうちとよしげ)の慶喜擁護論にくみして岩倉具視(ともみ)に説得される。1869年(明治2)広島藩主、ついで同藩知事となり、2年後廃藩によりこれをやめた。のち元老院議官、イタリア公使、宮内省華族局長官を歴任、侯爵、貴族院議員となり、96歳まで長寿を保った。
[土井作治]
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安芸国広島藩主。幼名長興,のち茂勲。近江守,紀伊守。1862年(文久2)藩主長訓の世子となり,国事に活躍。63年以後,長州藩に対して寛大な処置を唱え続け,67年(慶応3)薩長両藩と挙兵討幕の盟約を結び,一方,土佐藩の大政奉還運動にも加わった。新政府の議定,参与などに任じ,69年広島藩主となり,のち元老院議官,イタリア公使,貴族院議員などを務めた。
執筆者:井上 勝生
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…紙のなかでは印刷・情報用紙(紙類全体の60.8%),新聞巻取紙(同17.7%)が多く,板紙では段ボール原紙(同73.9%)が大半である(1996)。
[日本における沿革]
日本における洋紙生産は,旧広島藩主浅野長勲が中心となって東京日本橋に1872年(明治5)設立した有恒社(1924年王子製紙に併合)が1874年6月に製造したのが最初である。75年には,後藤象二郎らの経営する蓬萊社(後藤が製糖の目的で1872年設立)が大阪で製紙工場を開業し,東京では林徳左衛門がアメリカ人ドイルとの共同出資で設立した三田製紙所が開業した。…
…その一つの中心が杉浦重剛,三宅雪嶺らの雑誌《日本人》であり,もう一つの中心が《日本》で,両者は人脈的にも思想的にも密接な関係があった。新聞発行を資金面で援助したのは,創刊当初には谷干城,浅野長勲,のちには近衛篤麿らであった。《日本》の売物は,陸羯南の担当する社説,三宅雪嶺や福本日南らの執筆する論説などであった。…
※「浅野長勲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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