浦戸城跡(読み)うらどじようあと

日本歴史地名大系 「浦戸城跡」の解説

浦戸城跡
うらどじようあと

[現在地名]高知市浦戸

浦戸湾口に西から突出した半島状の地の、先端部近くにあった平山城。東は眼下かつら浜が、南には太平洋が広がる。長宗我部氏最後の居城として著名。

この地に築城されたのは南北朝時代初頭といわれ、建武三年(一三三六)一月八日の佐伯経貞軍忠状(蠧簡集拾遺)にみえる、一月七日の南北両朝の浦戸合戦は、浦戸湊制圧とともにここにあった城の攻防であったといわれる。戦国時代、長岡郡本山もとやま(現本山町)本拠とした本山氏が土佐平野に進出する。天文九年(一五四〇)頃までに本山梅慶は吾川あがわ弘岡ひろおか(現春野町)の吉良氏を滅ぼし、浦戸にまで進出した。そして土佐平野経営の拠点朝倉あさくら城の支城として要衝浦戸に城を築き、重臣本山玄蕃を配した。しかし永禄三年(一五六〇)長宗我部国親の攻撃に遭い落城。時に梅慶の子茂辰の代となっていた(土佐物語)。同年国親が死去し、元親が家督を継ぐ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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