浮田荘(読み)うきたのしょう

改訂新版 世界大百科事典 「浮田荘」の意味・わかりやすい解説

浮田荘 (うきたのしょう)

日向国宮崎郡(旧,生目村。現,宮崎市浮田)の荘園。1057年(天喜5)施入された荒野を開発したのに始まる。諸県荘と並んで宇佐神領の基本的な荘園とされる。95年(嘉保2)には柏原別符,長峰別符,細江別符を分出。《八幡宇佐宮御神領大鏡》には起請定田112町とあるが,1197年(建久8)の《日向国図田帳》では田数300町となっており,弁済使として故宇佐宮司公通宿禰俊(後)家の名がみえる。1203年(建仁3)公通の嫡子公定が亡母佐伯四子の譲に任せ鎌倉幕府より浮田荘の地頭弁済使職を安堵された。平安末期以来摂関家が本所となっており,鎌倉中期には鷹司家から春日社大般若転読料所として興福寺東北院が相伝領知し,収納の一部は関東祈禱料にもあてられていた。南北朝期には宮方,武家方両党の抗争の地となり,1373年(文中2・応安6)今川了俊が同荘を兵粮料所として土持氏にあてがっている。
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百科事典マイペディア 「浮田荘」の意味・わかりやすい解説

浮田荘【うきたのしょう】

日向国宮崎郡にあった荘園で,現宮崎市浮田を中心とする一帯に比定。1057年国司菅野政義が宮崎郡内の地を区画し豊前宇佐宮に寄進して成立した。1095年には柏原(かしわばる)別符などを分出。《八幡宇佐宮神領大鏡》では起請定田112町,1197年の《日向国図田帳》では田代300町,弁済使は故宇佐大宮司公通宿禰後家(佐伯四子)。1203年公通の嫡子公定が地頭弁済使職を安堵された。その後公定と姉妹である宇佐中子との間で紛争が起き,本所近衛家を巻き込む相論となった。鎌倉中期には鷹司家から奈良興福寺東北院に永代寄進された。当荘は奈良春日社大般若転読祈祷料所であったが,1373年兵粮料所に指定され,土持三河守に預けられた。

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