朝日日本歴史人物事典 「海江田信義」の解説
海江田信義
生年:天保3.2.11(1832.3.13)
幕末の薩摩(鹿児島)藩士,明治政府の官僚。有村仁左衛門の長子。雄助,次左衛門の兄。11歳の年,茶坊主となり俊斎を名乗る。安政5(1858)年,京にあって西郷隆盛らと井伊幕政打倒を計画するが挫折,月照を伴って帰藩。翌6年11月薩摩藩尊攘派ともいうべき誠(精)忠組に参加。文久1(1861)年12月日下部伊三次の養子となり,この家の旧姓海江田を姓とす。翌2年島津久光の率兵上洛に随従,有馬新七の挙兵計画の中止を図る。さらに随従し江戸へ,その帰路の生麦(神奈川県鶴見区)で,奈良原喜左衛門に切られた英人リチャードソンに止めを刺した(生麦事件)。翌年7月薩英戦争に参軍,奈良原と英艦奪取を企てるも失敗。越えて明治1(1868)年の戊辰戦争下では東海道先鋒総督府参謀として江戸へ,大村益次郎との戦略上の意見対立から辞意を表明。刑法官,刑部大丞,弾正大忠。折から大村益次郎暗殺事件があり,これの犯人処刑に異議を申し立て同3年3月謹慎に処せられ位記返上(粟田口止刑事件)。のち許され奈良県知事,元老院議官,枢密顧問官を歴任。
(井上勲)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報