海野勝珉(読み)ウンノショウミン

デジタル大辞泉 「海野勝珉」の意味・読み・例文・類語

うんの‐しょうみん【海野勝珉】

[1844~1915]彫金家茨城の生まれ。東京美術学校教授。水戸派彫金を学び、上京後、加納夏雄師事写実の中に優雅な趣をみせた作風で、明治彫金界の主流を成した。帝室技芸員

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精選版 日本国語大辞典 「海野勝珉」の意味・読み・例文・類語

うんの‐しょうみん【海野勝珉】

彫金家。水戸の人。名は彌五郎。初号藻税軒。萩谷勝平、海野美盛に学び、写実的で華麗な作風を示す。東京美術学校教授。弘化元~大正四年(一八四四‐一九一五

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改訂新版 世界大百科事典 「海野勝珉」の意味・わかりやすい解説

海野勝珉 (うんのしょうみん)
生没年:1844-1915(弘化1-大正4)

明治時代の金工家。幼名竹次郎または弥五郎。芳洲,藻税軒基平などと号した。水戸の生れで,9歳より萩谷勝平および伯父の初代海野美盛(びせい)に彫金を学び,絵を安達梅渓に,書を武庄次郎に学んだ。1871年(明治4)上京。基平と名のっていたが,横谷宗珉に勝る工人になろうと志し,勝珉と改名。76年の廃刀令の公布により装剣金具の製作は断念したが,《蘭陵王置物》(宮内庁)など各種の作品を展覧会に出品して,その力量を認められる。90年東京美術学校雇員となり,加納夏雄と師弟間柄になる。94年同校教授。96年帝室技芸員となり,明治金工界の重鎮として活躍した。諸派の彫法をきわめ,その作風は写実風の中に優雅な趣を示した。とくに象嵌(ぞうがん)では,色模様を出した多彩な彫金が得意であった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「海野勝珉」の意味・わかりやすい解説

海野勝珉
うんのしょうみん

[生]弘化1 (1844).5.15. 水戸
[没]1915.10.6. 東京
彫金家。本名は竹次郎,弥五郎。9歳の頃から水戸の金工萩谷勝平に師事し,次いで安達梅渓に書画を学ぶ。初め藻税軒,基平,貞月庵,旭登などと号したが,明治1(1868)年東京に移住し勝珉と改号,諸派の彫技を研究して一家をなした。特に象眼,肉彫,片切彫に長じ,金属の諸色を配した華やかな彫金の味を出した。東京美術学校教授,帝室技芸員となり明治の工芸界を指導。主要作品『蘭陵王置物』(宮内庁三の丸尚蔵館),『還城楽(げんじょうらく)図額』(東京国立博物館),『布袋片切彫手板』(東京芸術大学大学美術館)。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「海野勝珉」の解説

海野勝珉 うんの-しょうみん

1844-1915 明治時代の彫金家。
天保(てんぽう)15年5月15日生まれ。初代萩谷(はぎたに)勝平,伯父の初代海野美盛(よしもり)に彫金をまなぶ。明治10年第1回内国勧業博覧会に出品し受賞。東京美術学校(現東京芸大)の雇員となり加納夏雄に師事,27年同校教授。29年帝室技芸員。色彩感のある象眼(ぞうがん)と片切り彫りを得意とした。大正4年10月6日死去。72歳。常陸(ひたち)(茨城県)出身。通称は竹次郎,弥五郎。別号に芳洲,東華斎など。代表作に「蘭陵王」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「海野勝珉」の意味・わかりやすい解説

海野勝珉
うんのしょうみん
(1844―1915)

明治の金工家。水戸に生まれる。幼名を竹次郎または弥五郎と称し、水戸の装剣金工家萩谷(はぎたに)勝平および叔父初代海野美盛にその技を学び、強健な鏨(たがね)の力に優美さをもつ作風を示した。芳洲、藻税軒、貞月庵、旭東、東華斉などの別号があり、1891年(明治24)東京美術学校教授となり、翌年には帝室技芸員に任ぜられた。彫金家海野清の父。

[小笠原信夫]

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