朝日日本歴史人物事典 「清元延寿太夫(初代)」の解説
清元延寿太夫(初代)
生年:安永6(1777)
江戸後期の清元節の初代家元。江戸横山町の茶油商に生まれる。本名岡村吉五郎。初代富本斎宮太夫(のち延寿斎)の高弟で2代目斎宮太夫を襲名。2代目富本豊前太夫と不和になり,文化9(1812)年富本を退き豊後路清海太夫の名で一派を樹立,11年清元延寿太夫と改名して清元節を創設した。「保名」(1818)の成功に際し「都座に過ぎたるものが二つあり延寿太夫に鶴屋南北」と落首によまれる。ほかに「須磨」「累」「山姥」などを好演。生来の美音に加え,庶民の好みや時代の要求を取り入れ清元節隆盛の基礎をおく。半面,浄瑠璃を語りくずして下品にしたともいわれた。文政7(1824)年剃髪して清元延寿斎と号した。翌年劇場からの帰途刺殺される。富本方に嫌疑がかかったが,犯人は不明。妻のお悦も清元節の名手。<参考文献>忍頂寺務『清元研究』,竹内道敬「初世清元延寿太夫の謎」(『近世芸能史の研究』)
(竹内有一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報