出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
明治~大正期の官僚政治家。伯爵。嘉永(かえい)3年2月14日、肥後(ひご)国(熊本県)鹿本(かもと)郡来民(くたみ)の僧侶(そうりょ)の家に生まれる。豊後(ぶんご)(大分県)日田(ひた)の咸宜園(かんぎえん)(広瀬淡窓(ひろせたんそう)の創立)で漢学を学ぶ。埼玉県に赴き小学校長、県吏員を経て司法省に出仕。治罪法の起草などにあたる。内務省大書記官、警保局長、司法次官などを歴任。警保局長時代の1887年(明治20)には山県有朋(やまがたありとも)内務大臣のもとで出版条例・新聞紙条例の改正、保安条例の制定に参画した。山県系官僚政治家の中心人物で、その後、第二次松方正義(まつかたまさよし)、第二次山県内閣の法相、第一次桂太郎(かつらたろう)内閣の農商務相、法相、内相を務め、また、15年にわたり貴族院の勅選議員として同院の有力会派たる研究会を指導し、大きな勢力を保った。1906年(明治39)枢密顧問官となり、副議長を経て、1922年(大正11)山県の死後を受けて枢密院議長となった。その間、1914年には第一次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣退陣後、組閣の大命を受けたが海軍の反対によって辞退。1924年1月ふたたび組閣の大命を受け、貴族院の勢力を基礎に内閣を組織したが、憲政会、立憲政友会、革新倶楽部(くらぶ)の護憲三派による倒閣運動の矢面にたたされ、衆議院議員選挙に敗北して、同年6月総辞職、政界の第一線を退いた。昭和17年11月5日死去。
[鳥海 靖]
『井上正明編『伯爵清浦奎吾伝』(1935・同書刊行会)』▽『御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書14 清浦奎吾』(2006・ゆまに書房)』
官僚政治家。肥後国の僧侶の五男に生まれ,清浦家の養子となる。広瀬淡窓に漢学を学び1872年上京。埼玉県下級県吏を振り出しに,山県有朋の直系官僚として内務省警保局長,司法次官などを歴任,保安条例公布施行の局に当たった。その間91年貴族院議員に勅選。96年の第2次松方正義内閣の法相をはじめとし,第2次山県内閣法相,第1次桂太郎内閣の法・農商務相となる。1906年枢密顧問官。14年山本権兵衛内閣のあとを受け組閣に当たるが,海相を得られず断念。世にこれを鰻香(まんこう)内閣という。17年枢密院副議長となり,山県議長の意をうけ山県系の牙城としての枢密院をまとめ,22年山県死後,議長となる。虎の門事件で倒れた第2次山本内閣を受けて,24年1月貴族院を母体に組閣するが,第2次護憲運動が起こり,総選挙で護憲三派に衆議院を制せられ同年6月下野,その政治生命を終えた。28年伯爵となる。
執筆者:伊藤 之雄
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1850.2.14~1942.11.5
明治~昭和前期の官僚政治家。肥後国生れ。日田の咸宜(かんぎ)園に学ぶ。維新後司法省で累進,のち内務省警保局長となり,山県有朋(やまがたありとも)の知遇を得る。司法次官をへて,1896年(明治29)第2次松方内閣と第2次山県内閣の司法相,第1次桂内閣では司法相・農商務相を務めた。91年から15年間貴族院勅選議員を務め,日清戦争後には研究会の山県系議員の中核として動いた。1906年枢密顧問官となり,14年(大正3)には組閣命令をうけたが,海相が得られずに辞退(鰻香(まんこう)内閣)。22年枢密院議長に就任,24年1月貴族院を基礎に組閣したが,第2次護憲運動に敗れて半年で退陣。伯爵。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...
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