清浦奎吾(読み)キヨウラケイゴ

デジタル大辞泉 「清浦奎吾」の意味・読み・例文・類語

きようら‐けいご【清浦奎吾】

[1850~1942]政治家。熊本の生まれ。旧刑事訴訟法保安条例の制定に参画。第二次山県内閣の法相として治安警察法を制定。大正13年(1924)首相に就任したが、護憲三派の攻撃で総辞職

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精選版 日本国語大辞典 「清浦奎吾」の意味・読み・例文・類語

きようら‐けいご【清浦奎吾】

  1. 政治家。伯爵。熊本藩出身。豊後国(大分県)日田の咸宜園(かんぎえん)に学ぶ。山県有朋直系の官僚として、第二次松方、第二次山県、第一次桂各内閣の法相、農商務相、内相をつとめる。大正一三年(一九二四)内閣を組織したが、護憲三派の攻撃をうけて総辞職。貴族院議員枢密顧問官枢密院議長を歴任。嘉永三~昭和一七年(一八五〇‐一九四二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「清浦奎吾」の意味・わかりやすい解説

清浦奎吾
きようらけいご
(1850―1942)

明治~大正期の官僚政治家。伯爵。嘉永(かえい)3年2月14日、肥後(ひご)国(熊本県)鹿本(かもと)郡来民(くたみ)の僧侶(そうりょ)の家に生まれる。豊後(ぶんご)(大分県)日田(ひた)の咸宜園(かんぎえん)(広瀬淡窓(ひろせたんそう)の創立)で漢学を学ぶ。埼玉県に赴き小学校長、県吏員を経て司法省に出仕。治罪法の起草などにあたる。内務省大書記官、警保局長、司法次官などを歴任。警保局長時代の1887年(明治20)には山県有朋(やまがたありとも)内務大臣のもとで出版条例・新聞紙条例の改正、保安条例の制定に参画した。山県系官僚政治家の中心人物で、その後、第二次松方正義(まつかたまさよし)、第二次山県内閣の法相、第一次桂太郎(かつらたろう)内閣の農商務相、法相、内相を務め、また、15年にわたり貴族院の勅選議員として同院の有力会派たる研究会を指導し、大きな勢力を保った。1906年(明治39)枢密顧問官となり、副議長を経て、1922年(大正11)山県の死後を受けて枢密院議長となった。その間、1914年には第一次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣退陣後、組閣の大命を受けたが海軍の反対によって辞退。1924年1月ふたたび組閣の大命を受け、貴族院の勢力を基礎に内閣を組織したが、憲政会立憲政友会革新倶楽部(くらぶ)の護憲三派による倒閣運動の矢面にたたされ、衆議院議員選挙に敗北して、同年6月総辞職、政界の第一線を退いた。昭和17年11月5日死去。

鳥海 靖]

『井上正明編『伯爵清浦奎吾伝』(1935・同書刊行会)』『御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書14 清浦奎吾』(2006・ゆまに書房)』


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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「清浦奎吾」の解説

清浦 奎吾
キヨウラ ケイゴ


肩書
第23代首相,枢密院議長

旧名・旧姓
旧姓=大久保

生年月日
嘉永3年2月14日(1850年)

出生地
肥後国鹿本郡来民町(熊本県鹿本町)

経歴
咸宜園に学び、上京して埼玉県下級官吏となり、明治9年司法省に入省。19年山県有朋内相の下で内務省警保局長となり治安立法、警察制度の整備に当たる。24年貴族院議員。25年司法次官を経て、第2次松方内閣、第2次山県内閣の法相に就任、治安警察法制定などを推進。第1次桂内閣の法相兼農商務相兼内相を務めた後、39年枢密顧問官。大正3年山本内閣の時、組閣を命ぜられたが、海相の人選難から辞任に追い込まれ、香りをかいだだけの“鰻香内閣”といわれた。6年枢密院副議長、11年議長。13年第2次山本内閣の後をうけて首相となり、貴族院を基盤に特権内閣を組織したが、護憲三派に攻撃され解散、衆院選で大敗、半年で総辞職した。以後、前官待遇、昭和3年伯爵。

趣味
漢詩

没年月日
昭和17年11月5日

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改訂新版 世界大百科事典 「清浦奎吾」の意味・わかりやすい解説

清浦奎吾 (きようらけいご)
生没年:1850-1942(嘉永3-昭和17)

官僚政治家。肥後国の僧侶の五男に生まれ,清浦家の養子となる。広瀬淡窓に漢学を学び1872年上京。埼玉県下級県吏を振り出しに,山県有朋の直系官僚として内務省警保局長,司法次官などを歴任,保安条例公布施行の局に当たった。その間91年貴族院議員に勅選。96年の第2次松方正義内閣の法相をはじめとし,第2次山県内閣法相,第1次桂太郎内閣の法・農商務相となる。1906年枢密顧問官。14年山本権兵衛内閣のあとを受け組閣に当たるが,海相を得られず断念。世にこれを鰻香(まんこう)内閣という。17年枢密院副議長となり,山県議長の意をうけ山県系の牙城としての枢密院をまとめ,22年山県死後,議長となる。虎の門事件で倒れた第2次山本内閣を受けて,24年1月貴族院を母体に組閣するが,第2次護憲運動が起こり,総選挙で護憲三派に衆議院を制せられ同年6月下野,その政治生命を終えた。28年伯爵となる。
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20世紀日本人名事典 「清浦奎吾」の解説

清浦 奎吾
キヨウラ ケイゴ

明治・大正期の政治家,伯爵 首相;枢密院議長。



生年
嘉永3年2月14日(1850年)

没年
昭和17(1942)年11月5日

出生地
肥後国鹿本郡来民町(熊本県鹿本町)

旧姓(旧名)
大久保

経歴
咸宜園に学び、上京して埼玉県下級官吏となり、明治9年司法省に入省。19年山県有朋内相の下で内務省警保局長となり治安立法、警察制度の整備に当たる。24年貴族院議員。25年司法次官を経て、第2次松方内閣、第2次山県内閣の法相に就任、治安警察法制定などを推進。第1次桂内閣の法相兼農商務相兼内相を務めた後、39年枢密顧問官。大正3年山本内閣の時、組閣を命ぜられたが、海相の人選難から辞任に追い込まれ、香りをかいだだけの“鰻香内閣”といわれた。6年枢密院副議長、11年議長。13年第2次山本内閣の後をうけて首相となり、貴族院を基盤に特権内閣を組織したが、護憲三派に攻撃され解散、衆院選で大敗、半年で総辞職した。以後、前官待遇、昭和3年伯爵。

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百科事典マイペディア 「清浦奎吾」の意味・わかりやすい解説

清浦奎吾【きようらけいご】

明治・大正の政治家。肥後(ひご)国出身。広瀬淡窓に学び,1872年上京。埼玉県下級県吏を振出しに官僚となり,1877年司法省で刑事訴訟法の制定に当たる。1886年第1次伊藤博文内閣の内相山県有朋のもとで警保局長となり警視庁改革,治安警察の充実を図り保安条例の公布に参画。1891年貴族院議員に勅選,山県直系の官僚政治家として法相,農商務相などを歴任。1906年枢密顧問官,1922年枢密院議長。1924年貴族院を中心として組閣したが半年で総辞職。警保局長時代に編集した《徳川時代警察沿革誌》は貴重な文献。→清浦奎吾内閣
→関連項目高島炭鉱事件

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「清浦奎吾」の意味・わかりやすい解説

清浦奎吾
きようらけいご

[生]嘉永3(1850).2.14. 肥後
[没]1942.11.5. 静岡,熱海
政治家。父は僧侶の大久保了思。清浦家の養子となる。明治5 (1872) 年,上京して埼玉県吏となり,1876年に司法省に入った。 84年内務省警保局長を経て,山県有朋閥に属する内務官僚として頭角を現し,92年司法次官。 96年第2次山県有朋内閣の司法相,次いで 1901年第1次桂太郎内閣の司法,農商務相となった。 06年枢密顧問官を歴任。憲政擁護運動シーメンス事件のなか 14年山本権兵衛内閣が倒れたあと,山県の意向を受け,組閣を試みたが,海軍,政友,憲政両党の反対で失敗。 22年枢密院議長,伯爵。 24年1月組閣,首相となったが,5月の総選挙で護憲三派が圧勝し,6月に総辞職した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「清浦奎吾」の解説

清浦奎吾
きようらけいご

1850.2.14~1942.11.5

明治~昭和前期の官僚政治家。肥後国生れ。日田の咸宜(かんぎ)園に学ぶ。維新後司法省で累進,のち内務省警保局長となり,山県有朋(やまがたありとも)の知遇を得る。司法次官をへて,1896年(明治29)第2次松方内閣と第2次山県内閣の司法相,第1次桂内閣では司法相・農商務相を務めた。91年から15年間貴族院勅選議員を務め,日清戦争後には研究会の山県系議員の中核として動いた。1906年枢密顧問官となり,14年(大正3)には組閣命令をうけたが,海相が得られずに辞退(鰻香(まんこう)内閣)。22年枢密院議長に就任,24年1月貴族院を基礎に組閣したが,第2次護憲運動に敗れて半年で退陣。伯爵。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「清浦奎吾」の解説

清浦奎吾 きようら-けいご

1850-1942 明治-大正時代の官僚,政治家。
嘉永(かえい)3年2月14日生まれ。広瀬淡窓創立の咸宜(かんぎ)園にまなぶ。内務官僚として山県有朋(やまがた-ありとも)に信任され,明治24年貴族院議員。法相,農商務相,枢密顧問官などを歴任し,大正13年貴族院を母体に超然内閣を組織するが,総選挙で護憲三派に敗れ,5ヵ月で総辞職した。昭和17年11月5日死去。93歳。肥後(熊本県)出身。

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旺文社日本史事典 三訂版 「清浦奎吾」の解説

清浦奎吾
きようらけいご

1850〜1942
明治〜昭和期の官僚政治家
肥後(熊本県)の生まれ。山県有朋直系として法相・農商務相・枢密院議長を歴任し,貴族院・枢密院内に勢力をはった。1924年貴族院を中心に超然内閣を組織したが,第2次護憲運動で攻撃され,5か月で総辞職。晩年は重臣に列した。

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367日誕生日大事典 「清浦奎吾」の解説

清浦 奎吾 (きようら けいご)

生年月日:1850年2月14日
明治時代;大正時代の官僚;政治家。貴族院議員;伯爵
1942年没

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