渡部村(読み)わたべむら

日本歴史地名大系 「渡部村」の解説

渡部村
わたべむら

[現在地名]分水町渡部

国上くがみ山の南西にあり、北東は国上村。大正一一年(一九二二)大河津おおこうづ分水(新信濃川)の完成により、村を南東から北西へ同分水が貫流することになった。東に石港いしみなと、南に幕島まくじま集落がある。「延喜式」兵部省の諸国駅伝馬条にみえる「渡戸わたりへ」駅の遺称地ともされる。永正七年(一五一〇)と推定される六月一四日付の長尾為景書状(志駄文書)によれば、関東から侵攻してきた上杉顕定軍勢と為景方が同月六日「渡部」で合戦をしている。

元和六年(一六二〇)の三条御引渡郷村帳(幸田重寛氏文書)では高五五一石四斗、新田三石が記される。

渡部村
わたなべむら

[現在地名]若美町渡部

八郎潟の南西岸に位置し、北は福川ふくがわ村、南は払戸ふつと村、西は寒風かんぷう山麓樽沢たるざわ村・浦田うらだ村(現男鹿おが市)などと相対する。

近世末期の開拓村で、嘉永期(一八四八―五四)の「絹篩」には払戸村の支郷として、「長根村とも云、文政九戌年より渡辺村と改といへり。此村払戸村地形の内字処鳥居長根と云、往古真山一の華表ありと云」とある。鳥井長根とりいながね、または千間谷地せんげんやちは古くから近村の入会採草地で、潟東の今戸いまど(現井川町)大川おおかわ村(現五城目ごじようめ町)、一日市ひといち(現八郎潟町)からも入会していた。安永二年(一七七三)夏曳網役銀元形願(遠藤家文書)に「殊にハ夏中御田地肥草取候も山遠ク、其上馬不足在処故付運等も不相成、無拠男鹿払戸村谷地年買求、船ニ肥草積運候」とあり、三村がそれぞれ一〇〇間に四〇〇間あての草刈場入会地を求め、払戸村へ銭四貫文を払っていた。

渡部村
わたなべむら

[現在地名]いわき市渡辺町わたなべまち田部たなべ

釜戸かまど川沿岸にあり、北は初田はつた村、南はいずみ村。北の初田村とともに浜街道の宿場を形成し、新田しんでん宿ともよばれた。浜街道は釜戸川を渡ると渡部宿の街村に入り、鉤形に曲がって初田宿の街村へ入っていた。文安三年(一四四六)七月五日の岩城清隆去状(上遠野文書)によれば「奥州菊田庄(中略)わたのへしミつの在家」などが上遠野出羽守に去渡されている。菊多きくた郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から寛永一一年(一六三四)以降泉藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録に渡部村清水村とあり、高四三石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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