源頼家(読み)みなもとのよりいえ

精選版 日本国語大辞典 「源頼家」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐よりいえ【源頼家】

[一] 平安時代の歌人。清和源氏。頼光の子。備中・越中・筑前守を歴任。従四位下。和歌六人党の一人。「後拾遺集」以下の勅撰集に九首入集。生没年未詳。
[二] 鎌倉幕府二代将軍。頼朝の長子。母は北条政子。正治元年(一一九九)頼朝の死により家督を継いだが、北条氏のために将軍の権限を抑えられ、比企能員と北条氏討伐を企てたが失敗し伊豆修善寺に幽閉され、殺された。寿永元~元久元年(一一八二‐一二〇四

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デジタル大辞泉 「源頼家」の意味・読み・例文・類語

みなもと‐の‐よりいえ〔‐よりいへ〕【源頼家】

[1182~1204]鎌倉幕府第2代将軍。頼朝の長男。母は北条政子。父の死後家督を継ぎ、征夷大将軍となった。北条氏の合議制による将軍権能の制限を嫌い、これを討とうとしたが失敗、伊豆の修禅寺に幽閉されて殺された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「源頼家」の意味・わかりやすい解説

源頼家
みなもとのよりいえ
(1182―1204)

鎌倉幕府第2代将軍。源頼朝(よりとも)の長子。母は北条政子(ほうじょうまさこ)。幼名万寿(まんじゅ)、十万(じゅうまん)。1199年(正治1)父頼朝の死後家督を継ぎ、1202年(建仁2)将軍に就任した。頼家は、妻の父である有力御家人(ごけにん)比企能員(ひきよしかず)を登用して、頼朝死後の幕府の体制を立て直そうとしたが、比企氏の勢力が強大となることを恐れた北条氏は、頼家の母政子と結んで、北条時政(ときまさ)、大江広元(おおえのひろもと)、梶原景時(かじわらかげとき)、和田義盛(わだよしもり)ら13人の有力御家人の合議制によって政治を進めることにし、頼家の独裁を抑えようとした。その後、有力御家人間の主導権をめぐる権力闘争が激化し、北条氏が着々と勢力を伸張するなかで、頼家の将軍としての実権はしだいに有名無実化していった。そこで頼家は比企氏と結んで権力の回復を意図したが、かえって有力御家人の離反を招く結果となった。1203年8月、北条氏は頼家が病気となったのを口実として権限を奪い、総地頭職(そうじとうしき)・総守護職を頼家の子一幡(いちまん)と弟の千幡(せんまん)(実朝(さねとも))に分割支配させようとした。頼家は比企氏と図って北条氏を排除しようとしたが、逆に比企氏は誅伐(ちゅうばつ)され、この計画に加わっていたことを理由に頼家は将軍職を奪われ、伊豆国修禅寺(しゅぜんじ)に幽閉され、翌1204年(元久1)7月18日、北条氏による刺客によって殺された。墓は静岡県伊豆市修禅寺門前にある。

[瀬野精一郎]

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改訂新版 世界大百科事典 「源頼家」の意味・わかりやすい解説

源頼家 (みなもとのよりいえ)
生没年:1182-1204(寿永1-元久1)

鎌倉幕府第2代将軍。源頼朝の長子。母は北条政子。1199年(正治1)父の死後17歳で家督を継ぎ,1202年(建仁2)征夷大将軍。北条氏のはからいで有力御家人13人による合議制がしかれたため独裁することができず,また03年には66ヵ国地頭職および惣守護職を子の一幡(いちまん)と弟の千幡(後の実朝)へ分譲決定を余儀なくされた。同年9月舅比企能員(ひきよしかず)と謀って北条氏討伐を企てたが失敗し,比企氏は滅び頼家は伊豆修禅寺に幽閉され,翌年7月18日同寺で刺殺された。

 頼家は幼少より才気煥発独断専行が多く,そのため北条氏や他の御家人の信任を得られなかったといわれる。頼家の周りには比企一族のほか梶原景時をはじめ頼家お気に入りの近習がおり,使者,手兵,遊び仲間としての役目を果たしていた。景時が追放,討滅されたのも,彼が頼家に最も近い側近で,後見でもあったためといわれる。景時没後も頼家は近習だけを重んじ,彼らを実名で呼び捨てて親密さを示し,一時は近習を通さなければ諸人の申し出は受け付けないと宣言したほどである。このような頼家に対し,北条氏は弟実朝の擁立を図り,それを果たした。幽閉中,頼家は近習の参入を懇願したがついに許されなかった。一説では近習の一人中野能成が北条氏のスパイであったともいう。

 修禅寺幽閉後の頼家を題材とした戯曲に岡本綺堂作《修禅寺物語》がある。
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朝日日本歴史人物事典 「源頼家」の解説

源頼家

没年:元久1.7.18(1204.8.14)
生年:寿永1.8.12(1182.9.11)
鎌倉幕府の第2代将軍。幼名万寿,または十幡(万)。源頼朝と北条政子の長男として,鎌倉比企谷第に誕生。鎌倉若宮大路の段葛はこの折の安産を願い,頼朝みずから御家人を指揮して造らせたものという。頼朝が長男に寄せる期待は大きく,建久4(1193)年の富士の大巻狩りで頼家に鹿を射止めさせたのは,関東御家人への家督披露のためであり,同6年の上洛に同伴参内した行為には,幕府の後継者として朝廷の認知を得る意図が込められていた。正治1(1199)年1月,父の死により頼家が鎌倉殿の地位を相続,頼朝の遺跡継承を認める宣旨を受け,建仁2(1202)年7月には征夷大将軍となった。当初頼家は,頼朝晩年の対朝廷政策を受け継ぎ,妹三幡の入内実現に努めたようだが,父と同じく宮廷の野心家土御門通親に乗ぜられ,再度の失政を招いた。幕府内にあっては,まもなく訴訟の直断を停止され,外祖父北条時政以下13人の宿老による合議に移された。頼家はこうした処置に抵抗を試み,近習を極端に厚遇し,強引な訴訟指揮に打って出たりしたが,幕府の史書『吾妻鏡』に,蹴鞠に熱中し数々の「乱行」をくりかえしたとされていることは,すでに人心が離反した事実を示す。ついに建仁3年8月,北条時政は頼家が急病に陥った間隙を突いて将軍権力の(頼家の弟千幡,のちの実朝と子一幡への)分割譲与を画策,頼家の舅能員ら比企一族を挑発し,9月一幡もろともにこれを屠った。新将軍には実朝が立てられ,執権時政が幕政を主導することとなるが,頼家は出家のうえ伊豆修禅寺に幽閉,やがて北条氏の討手により殺害された。この事件に取材した岡本綺堂の『修禅寺物語』は新歌舞伎の古典として名高い。墓所は修善寺町指月殿の傍らにあり,自筆の『般若心経』が伊豆三島大社に遺っている。<参考文献>大森金五郎『武家時代の研究』3巻,奥富敬之『源氏三代』

(杉橋隆夫)

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百科事典マイペディア 「源頼家」の意味・わかりやすい解説

源頼家【みなもとのよりいえ】

鎌倉幕府第2代将軍。頼朝の長子。幼名万寿。1202年征夷(せいい)大将軍となったが,北条氏のため老臣の合議制をしかれて独裁を封じられ,1203年義父比企能員(よしかず)と計って北条氏を討とうとして失敗。比企氏は滅ぼされ,頼家は将軍職を弟実朝に譲り伊豆修禅寺に幽閉され,翌年謀殺された。
→関連項目公暁北条政子

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「源頼家」の意味・わかりやすい解説

源頼家
みなもとのよりいえ

[生]寿永1(1182).8.12. 鎌倉
[没]元久1(1204).7.18. 伊豆
鎌倉幕府2代将軍 (在職 1202~03) 。頼朝の長子。母は北条政子。幼名,万寿。頼朝の死後家督を継ぎ,建仁2 (1202) 年7月征夷大将軍になったが,実権は北条氏が掌握。同3年8月病を理由に,関東 28ヵ国の地頭職および総守護職を子一幡に,西国 38ヵ国の地頭職を弟千幡 (→源実朝 ) に譲らされた。9月頼家は舅の比企能員と結び北条氏を除こうとはかったが失敗。能員と一幡は北条時政に殺され,頼家は伊豆修禅寺に幽閉され,のち北条氏に殺された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「源頼家」の解説

源頼家
みなもとのよりいえ

1182.8.12~1204.7.18

鎌倉幕府2代将軍(在職1202.7.23~03.9.7)。父は初代将軍頼朝。母は北条政子。幼名は万寿。1199年(正治元)頼朝の死後家督を継ぎ,1202年(建仁2)将軍となる。訴訟を扱う権限は有力御家人13人の合議に移され,実権をなかば失った将軍であった。側近の梶原景時は,1199年北条氏ほかの御家人集団により追放された。比企能員(ひきよしかず)の女(若狭局)との間に男子一幡(いちまん)が生まれ,比企氏が外戚となったため,これを警戒した北条時政により1203年比企氏と一幡は攻め滅ぼされた。頼家自身も伊豆国修禅寺に幽閉され,翌年死去。北条氏による暗殺という。

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旺文社日本史事典 三訂版 「源頼家」の解説

源頼家
みなもとのよりいえ

1182〜1204
鎌倉幕府第2代将軍(在職1202〜03)
頼朝の長子。母は北条政子。幼名万寿。1199年,父の死により家督を継いだが,間もなく北条氏によって13人の合議制がしかれ権力を失う。1202年征夷大将軍となり,'03年外戚の比企能員 (ひきよしかず) と結んで北条氏征討をはかったが失敗,能員は殺され,頼家は伊豆修禅寺に幽閉され,翌年北条氏により謀殺された。

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367日誕生日大事典 「源頼家」の解説

源頼家 (みなもとのよりいえ)

生年月日:1182年8月12日
鎌倉時代前期の鎌倉幕府第2代の将軍
1204年没

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世界大百科事典(旧版)内の源頼家の言及

【富士の巻狩】より

…この時期の大規模な巻狩挙行は,そうした武将を従える源頼朝が武家政権を確立し,みずからがその長であることを内外に示す大デモンストレーションとしての意味をもった。このとき頼朝の嫡男源頼家(当時12歳)が初めて鹿を射とめ,頼朝は大いに喜んで直ちに山神に感謝する矢口祭(やのくちまつり)を行い,祝宴を催したという。頼朝にとってそれは頼家が武家政権の後継者にふさわしい資格を有することを御家人に誇示する祝宴でもあった。…

【北条時政】より

…鎌倉幕府の初代執権。時方の子。母は伊豆掾伴為房の娘。伊豆国北条(現,静岡県韮山町)を本拠とする在庁官人で,北条四郎と称した。源頼朝が伊豆に流されていたとき,娘の北条政子が頼朝の妻となるのを許した。1180年(治承4)頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとこれを助け,まず伊豆の目代山木兼隆(やまきかねたか)を討った。しかし相模の石橋山の戦には敗れて安房に逃れた。ついで頼朝の命を受けて甲斐に赴き,同国の武田信義らを味方につけ,甲斐,信濃の源氏を伴って頼朝の本隊に合流し,駿河の富士川の戦で平維盛の東征軍を敗走させた。…

※「源頼家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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