デジタル大辞泉 「漢字」の意味・読み・例文・類語
かん‐じ【漢字】
[類語]真名・本字・国字・親字・簡体字・俗字・チャイニーズキャラクター・文字・
( 1 )用法は複雑で、また字数が多く、世界の文字の中で特異の性質をもつ。もともと中国で、紀元前千五百年前後に発生したものとされ、語またはその音を表わし、その字形の成立については漢代以来六書(りくしょ)という六つの形式が伝統的に説かれている。その書法として、歴史的に篆、隷、草、楷、行その他の書体が行なわれ、今日の日常では楷行草、特に印刷では楷書をもとにした明朝体等が用いられる。主として楷書について字形の構成を字体という。日本には三、四世紀ごろには伝わっていたと見られる。
( 2 )日本では、借用した中国語の発音(すなわち字音)で用いられ、ついで中国語に対応する日本語(すなわち字訓)があてられた。また、それらの読み方を借りた表音の用法が発展して、日本語のための特別の表音文字である平仮名、片仮名を生み出した。現在、政府は、常用漢字表を制定して、日常使用する範囲の漢字一九四五字とその音訓及び字体について標準を示している。なお、人名に用いる漢字の範囲が別に定められている。
漢字はその名の示すように中国の文字である。現在中国はもちろん,古代中国文化圏にあった日本および韓国でも用いられている。漢字はエジプトの象形文字(ヒエログリフ),メソポタミアの楔形(くさびがた)文字などと同じく古代文字であり,しかも現代になお用いられている唯一の古代文字である。過去3000年にわたって同じ文字が断絶することなく用いられてきたことは,中国文化の特異な一面を物語っている。
通説によれば漢字は他の古代文字と同じく表意文字ideographの段階にあるといわれる。表意文字とは1字がある音を表す表音文字に対して,1字がある観念ideaを表す文字で,たとえば漢字の〈日〉は太陽の観念を表すようなものである。しかしより厳密にいえば,漢字は表意文字というよりもむしろ表語文字logographであるというべきである。というのは〈日〉は直接太陽の観念を表すというよりは中国語の単語rìまたは日本語の単語hiを表すと考えるべきであるからである。もっとも〈日〉の例だと,この文字の古形は太陽を象徴していたから〈表意〉といえるであろうが,たとえば〈鯉(こい)〉のような文字になると,この文字自身からはただ〈魚〉に関係があることがいえるだけで,表意はこの場合すこぶる不完全である。〈鯉〉は中国語のlǐ(日本語ならkoi)という語を表すにすぎないのである。この表語性という点では漢字は他の古代文字に比していっそう徹底している。というのはエジプト文字ではその中にすでにアルファベット的使用も見られるし,メソポタミアの文字には音節文字的用法も認められるに対し,漢字では1字1語の原則が貫かれているからである。表音文字では1字は1音ないし1音節(場合によっては数音ないし数音節)を表し,その結合によって語を示すが,いちいちの漢字はそれぞれの語を表し,その語を構成する音の表記という点では1音節全体を表し,音構造は示さない。たとえば英字のmは音素/m/を表しうるが,それ自身ではなんらの語も示さない。これに反し漢字の〈人〉はなんらの音素も表しえないが,それだけでrén〈人〉という中国語の語全体を示す。すなわち漢字は表音的にはきわめて非能率的である。しかし各字が各語を直接に表し,したがって1字1字が個性をもっている。この1字1語1音節の原則はどうして成立できたかというと,それは中国語という言語の性格にもとづく。
中国語は単音節・無構造・孤立語の類型に属する言語である。すなわち中国語を形成する語は原則として単音節から成り,しかも各語は形態論的構造をもたず,したがって文構成に際して孤立的である。もっとも単音節性は現代中国語では必ずしも守られていないが,古くさかのぼればさかのぼるほどいちじるしい。このような単純な形態をもつ語を示す文字がその語を分析的に示さず,語を全体として表したのもきわめて自然である。ことに1語の形態が単音節から成るという特色はその語を示す文字を独立した1単位とするに有利であった。かくて1語はそれ自身に固有な文字をもつに至ったのである。もっとも中国語の語彙の中には,もともと2音節から成る語も存在した。たとえば朦朧méng lóngというような擬態語は多くの場合2音節であったが,この種の語は全体もしくは部分的重複を本質とし,したがって容易に2単位すなわち2音節に分析できたので,1字1音節の原則に触れることはなかった。このようにして各語はそれ固有の文字を占有する結果として,だいたい語の数だけ文字があるということになり,文字の数はおびただしいものになった。また一方ではこの文字はその表す語の音韻構造を分析的に示すことがなかったため,語の音韻形態を示すことが無効であるか,また不完全であり,その結果音からは遊離してしまい,語の音韻変化が行われても,その変化から超然とし,したがって文字は言語変化を超越して固定するに至り,かかる文字でつづられる文語が,ほとんど視覚的言語として2000年に近い長い年月にわたって使用されるという特異な現象を示している。漢文と呼ばれる古典文語がそれである。
ふつう〈六書(りくしよ)〉と呼ばれる分類がある。六書とは指事・象形・会意・形声・転注・仮借の六つである。このうち前4者が文字の形による分類であり,後2者は文字の転用に関するものである。そして指事と象形が単純な形態を示して基礎をなし,会意と形声とはその複合によるものである。まず象形はその名の示すように物の形に象(かたど)ったもので,〈日〉はその古形ではで,太陽に象り,同じく〈月〉も月の形を模したものである。そのほか〈馬〉とか〈鳥〉とかのように具象的な物の象形による文字の類を象形と呼ぶ。これはいうまでもなく太古の絵文字から発生したものであろう。具象的な物の場合はこの方法によって作ることが可能であるが,抽象的な観念を示すには他の方法によらなければならない。たとえば数のごとき場合がそうで,これらは〈一〉〈二〉のように線によって示した。これが指事である。〈上〉〈下〉などもその古形はであって,線に対して上下の点でこれを示した。
象形・指事の方法によって要素的な文字が作られたが,これだけでは多くの語を十分に示すことはできない。そこでこれらの要素文字の結合による文字ができてきた。その結合に二つの方法がある。一は要素文字の観念の結合によってある観念を表す語を示すもので,これを会意という。〈武〉という字は〈戈〉と〈止〉の結合で,武という語の示す概念は干戈(かんか)(戦争)を止めることだと説かれている(ただしこの字源解釈には疑問がある)。また〈信〉という字は〈人〉と〈言〉の結合であって,人間の言葉は信を本質とするところからこの結合がなされたといわれる。結合の他の方法は形声あるいは諧声と呼ばれる。これはその示す語の意味のカテゴリーを示す要素(義符)とその語の音形と同音または近似の音を示す要素(声符)との結合である。たとえば〈枝〉は,義符〈木〉はこの語の意味のカテゴリーを示し,声符〈支〉はこの語の音形を示す同音の文字である。また〈河〉も義符〈氵(=水)〉と音符〈可〉の結合で,可(kě)は近似的に〈河〉の示す語の音形(hé)を示している。この形声文字の原理は造字の最も有効な方法を提供し,この原理の発明によって漢字を広範囲につくり出す可能性を生じ,漢字の大部分がこの方法によってつくられているといわれる。どこの文字も結局は表音の方式によることによって完成されるが,漢字の場合もその例にもれず,その特異な表音法すなわち形声の原理によって大多数の文字を生み出した。ただしその表音は語の音形の全体的表示にとどまり,要素に分解するに至らず,しかも完全でない。
以上4種の方式によって漢字はつくり出されたが,しかしそれでも中国語の全語彙を表しつくすことはできない。必然的に既成の文字の転用によってその欠を補うということが起こる。それが転注と仮借である。転注というのはどういうのか,これには種々の説があってはっきりしないが,どうやら,ある文字をそれが表した語と同意,あるいは意味上関係のある他の語を表すに用いた場合であるらしい。たとえば,〈老〉の字で同意の〈考〉を表したような借字である。しかしこのような借字は,語の識別があいまいになるので,のちには声符を加えて区別を図った。〈考〉は〈老〉に声符丂を加えた形声字である。これに対し仮借のほうは適用範囲が広く,ある文字をその字の示した語の音と同音もしくは近似の音をもつ他の語に適用する場合である。〈求〉は元来皮衣(かわごろも)を意味する語を示す象形文字であったが,この語と同音の語で〈求める〉を意味する語に仮借された。その結果もとの皮衣を意味する語には,この〈求〉の字に義符〈衣〉を加えた形声文字〈裘〉を新たにつくり出すに至った。このように仮借の原理は文字の流用を可能ならしめ,その結果生ずる表語のあいまいさを防ぐために,義符の添加が行われて,語の表示を明確にした。形声文字は転注と仮借から声符あるいは義符の添加によって発生したものである。このように仮借は文字の表音性を利用したものであるが,ここに注目すべきは,中国ではこの表音性を発展させて一時は独特の表音文字をつくり出す方向を取ったが,形声の原理を発明することによってあくまで表語の原則を固執したことである。
→中国語
この漢字はいつごろつくられたかというと,その起源はわからない。現在知られるその最古の形は殷墟から出土した亀甲,獣骨に刻せられた文字である。これを殷墟文字または甲骨文字と呼び,だいたい前1500年くらいといわれる。この文字は多分に絵画的であるが,しかしすでにかなり慣習化され,線条的になっていて,けっしてこの文字の原始状態そのままであるとは考えられない。そこで漢字の起源についてはなおいろいろな可能性が考えられてくる。一つの考えは西方に起源を求める説である。古くから漢字とエジプトあるいはメソポタミアの文字との字形上の類似から西方起源説をとなえる人があるが,それは多くは個々の文字の類似にもとづく空想的な説であってあまり信用はできない。しかし近来アメリカのI.J.ゲルブという人は,この問題を古代文化史全般の新しい角度からとり上げ,古代文字の単源説をとなえ,エジプト文字も漢字もメソポタミアのシュメール文字に源を発しているという新説を出した。しかしこの説は実証の域に達せず,やはり中国の中にその起源を求めるほうが無難である。今後中国での発掘によってより原始的な文字が出土することを期待する。
殷墟文字についで周代の銅器の銘文の文字が知られている。これを金文または鐘鼎文(しようていぶん)という。これは殷墟文字の系統を受け,いっそう慣習化されているが,きわめて華麗な文字である。これは東周の時代にはいっても西方で行われていたが,東方ではやや異なった字体が使われていたといわれる。後漢の許慎の《説文解字》に載せられている古文という字体は東方の六国の文字であるという。やがて西方に秦が興起してくると,金文の系統を引く字体が現れ,これは石鼓文(せつこぶん)によって今日に伝えられている。《説文解字》に記されている籀文(ちゆうぶん)もこの系統であるといわれる。籀文はまた大篆(だいてん)という。秦の始皇帝は天下を統一すると,文字の統一をはかり,新しい字体を制定した。これは大篆の簡略化であって,小篆(しようてん)と称する。いわゆる篆書(てんしよ)はこの小篆である。金文にしろ籀文にしろ,あるいは小篆にしろ,いずれもいわば正式の装飾的な字体であって,鐘,鼎(てい)のような銅器やその他碑文などに用いられたものである。
これに対して実用的な字体も使用されたと考えられるが,秦の統一後その実用的な字体が表に現れてきた。いわゆる隷書(れいしよ)がそれである。隷書は前漢・後漢を通じて行われたが,漢末になると,これから楷書(かいしよ)が生まれた。楷書に至って漢字の字体は固定化され,今日に及んでいる。いっぽう楷書が隷書から発展する以前から,篆書や隷書をくずした,より簡略化された草書が用いられた。いわば漢字のデモティック・スタイルdemotic styleである。このほか行書というのは,楷書をややくずした形で楷書ほど角ばらないときに用いられる。
字体の変遷とともにときどき文字の整理ないし定着化が試みられた。とくに注目すべきは前述の秦の始皇帝の文字統一と唐初の文字整理である。前者はそれ以前に各国で用いられたいろいろの文字や字体の整理統一であった。のち小篆から隷書を通じて楷書に至る字体の変化,〈古文〉の発掘による経書の今古文の複雑な様相,言語の進展に由来する語と文字の関係等々により文字はなお動揺をまぬかれず,加うるに六朝時代の学術・学派の分裂は文字の上にも無統制を生んだ。隋の統一以後南北分裂の学術の統合は諸方面に認められるが,文字の上にもその顕著な現れが見られる。すなわち顔師古の経書の文字の批判にもとづく顔元孫の《干禄字書(かんろくじしよ)》,張参の《五経文字》,元度の《九経字様》などはこの文字整理の所産であり,唐の〈開成石経(かいじようせつけい)〉は経書の文字定着の成果である。だいたい,石経は後漢から文字の標準化を目的としたものであった。唐よりのちも文字の正俗に関する規範的意識はしだいに強化され,各代にわたる字書・韻書の編纂はたいがいこの意識に導かれている。宋の《類篇》ならびに《集韻》,元の《古今韻会挙要》,明の《洪武正韻》,《字彙》などから清の《康熙字典》に及んで漢字の規範は確固たる土台を得るに至った。その間印刷技術の発展に伴って,従来の筆写による流動性がしだいに固定化されたことも忘れてはならない。
→簡体字
漢字は中国固有の文字であるが,隣接の諸国すなわち日本,朝鮮,アンナン(ベトナム)に輸入されて,やがてこれら諸国に根をおろした。しかし3国各自の事情によってそれぞれの発展・消長を異にした。日本(詳細は後述)では漢字をもって漢語を表すとともに日本語を示すにも用い,またその略体から仮名(かな)の発生を見た。朝鮮は韓国では日本と同様,今日に至るまで漢語を表すに用いているが,朝鮮民主主義人民共和国ではこれを廃し,もっぱらハングル(諺文(おんもん))を用いている。しかし韓国でも漢字は漢語の表示にのみ使用し,朝鮮語を示すのには用いない。元来長い間漢字・漢文は朝鮮における正統な文字であり,文語であって,その国字諺文が15世紀に発明されてもその名の示すように,〈卑俗な文字〉であったのである。現在ではこの文字をハングル(大いなる文字)と呼んでいる。ハングル以前には漢字をもって朝鮮語を表すのにも用いていた。新羅時代の金石文や歌謡には漢字の訓読が行われ,とくに助詞・助動詞の類を示すために漢字の音読および訓読を複雑に利用している。その趣は日本の宣命(せんみよう)などに類する。この慣習は文書の中に長い間踏襲され,これを吏読(りとう)と称する。
吏読はハングル発明後にも李朝末期まで用いられた。また漢文を解釈する場合,日本の送仮名に類する吐というものを用いた。これには漢字をそのまま用いることもあるが,通例は漢字の略体を用い,その中には日本の片仮名によく似たものもあり,音・形ともにほとんど全く同じものもある(たとえば,タをtaに用いるがごとき)。おそらくは日本における漢字の使用は朝鮮における実験にもとづき,これを発展させたものである。朝鮮に漢字の伝来した年代は明確でない。中国文化との接触はひじょうに古いが,ことに漢の四郡設置は中国文化の移植を強度にもたらした。しかしこの中国人の植民地文化はその周囲の文化と格段に相違していたため,漢字が真に朝鮮の諸民族の間に浸透したのはやはり三国時代であったと思われる。だいたい4世紀後半にまず北から高句麗にはいり,ついで南から百済にはいった。新羅は最もおそく6世紀に百済を介してはいった。
ベトナムも漢代から中国文化の影響下にあり,朝鮮と同様記録には漢字・漢文を用いていたが,ベトナム語を表すに至ったのは14世紀からである。漢字でベトナム語を表すには日本や朝鮮とちがい,その言語が中国語と同じ類型のものであったから,これを漢字で示すことは比較的容易であった。たとえば没(字音môt6)をもってmôt6〈一〉を表すようにである。さらに漢字の構成原理を利用して新たな文字をつくった。たとえば月と正とを合体したがgiêng1〈正月〉を表すのはまさに会意の方法であり,末(字音mat6)と目の結合のがmǎt5〈眼〉を示すのは形声の原理である。これら漢字および漢字の原理を利用してベトナム語を表す文字をチュノム(字喃)と呼ぶ。しかし16世紀ころから,ヨーロッパの宣教師がベトナム語のローマ字化を試み,19世紀にベトナムがフランスの植民地になると,このローマ字が国字となって,漢字による表記はすたれた。このローマ字をクォク・グゥquôc-ngu(国語)と呼ぶ。なお漢字の字形輪郭は,朝鮮のハングルや,契丹・女真・西夏・イ(彝)・ミヤオ族などの文字にかなりの影響を与えている。
→文字
執筆者:河野 六郎
日本へは紀元1世紀またはその前後に,王莽(おうもう)の貨泉が渡来しているから,そのころには,漢字が知られていただろう。ただし,文字の機能まで十分日本人が理解していたかどうかは疑問である。なぜなら奈良時代になっても,史部(ふびとべ)その他,文字に関係ある部は,すべて渡来人か渡来人の子孫で,文字が一般に理解されるようになったのは,ずっと後世と考えられるからである。
初めて伝わったころの字音は不明であるが,5世紀から6世紀にかけての遺品といわれる埼玉県行田市稲荷山古墳出土の鉄剣銘,熊本県玉名郡和水町船山古墳出土の刀身銘や隅田(すだ)八幡の古鏡銘,また推古時代の金石文に残された固有名詞に見られる万葉仮名の字音,奇(カ),移(ヤ),里(ロ),止(ト)などは,漢・魏のころのものと推定される。これらは朝鮮を経て伝来したらしい。下って《古事記》や《万葉集》に主として用いられた字音は,世に呉音と呼ばれる字音とだいたい一致する。これは長江(揚子江)下流地方の六朝ころの音で,日本には推古時代前後に流入し,ひろく一般に行われて,日本の字音の基礎をなした。その後,隋・唐の時代になって都が長安に移され,北方音が標準とされるようになったとき,唐制の模倣に力を注いでいた日本では,宮廷で率先して新しい北方音を取り入れ,音博士は北方音を教授し北方音を正音と呼び,僧尼の得度(とくど)にも正音を修得しなければ許可しないと幾度か布告している。したがって《日本書紀》の歌謡訓注には,漢音が多く取り入れられている。しかし,《続日本紀》宣命の万葉仮名などは依然として呉音によるところが多いのを見ても,一般の日本人は,漢音の学習がかなり困難であったと見える。特殊な漢籍仏典の読誦(どくじゆ)のほかに,官職の呼称に至るまで呉音が多く用いられていた。漢音以後,平安時代にはいって唐が滅び宋の時代になると,中国の字音はかなり変化したが,入宋した僧などが,その音を伝えている。また,鎌倉時代に,禅宗の伝来に伴って新しく伝来した道具や食物の呼称などに従来と異なる字音によるものが少なくない。これらを唐音または宋音と呼ぶ。唐音の名は,宋・元・明・清初までの中国字音の日本に渡来したものを総称する。
元来中国字音は,1音節が頭子音・介母(かいぼ)・中心母音・韻尾の4部分より成り,さらに各字ごとに平上去入のアクセントをもっていて,日本語の音節が,母音一つ,または1子音1母音の結合から成るような簡単なものではなく,頭子音の種類も《広韻》で41種あり,日本語の13種にくらべてはるかに多い。したがって中国字音は日本語に取り入れられるにあたって極度に変形され,母国でもっていた音の区別が合併されることが多い。これが,日本における漢語の同音語の発生の主因となっている。また,中国字音の韻尾の部分は,日本では1音節化され,韻尾を有する字は2音節となっている。また,漢字の大部分は形声文字であるところから,字音を類推によって定めてしまい,中国の原音にない音を与えているものもある。これを慣用音と呼ぶ。たとえば,耗(もう),滌(じよう)など。これを百姓(ひやくしよう)読みともいう。
中国の原義に対応する日本語が固定した場合,それを訓という。たとえば,山をヤマ,花をハナと読む類である。しかし,文化・自然を異にする中国と日本との間では,当然文物の相違があり,たとえば鮎をアユ,桜をサクラと訓ずるが,中国では鮎はナマズであり,桜も日本のような花でないという。このように日本独特の意義に読まれる場合を国訓という。なお日本語を表記するのに,特殊な漢字の転用が慣習化したものを当て字という。
奈良時代の書風は王羲之を尊重する楷書体であり,平安時代に至って行書,草書も行われた。篆書,隷書は,日本では普通には用いられない。漢字が万葉仮名として用いられ,その略体から仮名が作り出されたことは,周知のことである。なお,会意によって日本で新しく作った文字を国字,和字などと呼ぶ。たとえば,凩(こがらし),峠,畠(はたけ),躾(しつけ)などで,国字の大部分は音をもたない。なお近来日本でも常用漢字の略体化が行われているが,はやく太平洋戦争前に文部省の国語調査会が約150の略字の使用を許容したが,戦後は当用漢字の制定と並行して131字の略体を発表し,政府の文書や教科書にこれを用い,また新聞・雑誌などにも実施され,その後数次にわたる追補が行われて一般に普及しつつある。
→仮名
漢字は1字1語を表すので中国では多くの字が使われているが,日本では古く《古事記》が約1600字,《万葉集》が約2600字を用いているにすぎなかった。明治時代以降,新聞が3000字に制限しようとしたが成功しなかった。第2次世界大戦後当用漢字を定めて,政府の文書・新聞・教科書に用いるようになった。日本語の表記に当たって漢字の使用は有害であるとする論もあるが,漢字を使用することによって中国文化を摂取し,仏教を知ることができた日本文化の今日の段階では漢字を全廃することは不可能であると思われる。なお,1981年10月,常用漢字として1945字が内閣により告示されている。
→国語国字問題
執筆者:大野 晋
漢字教育および漢字学習は他の文字,たとえば〈かな〉や英語のアルファベットなどの教育および学習とは,かなり方法や性格を異にしている。そのおもな理由は,漢字という文字自体のもつ特殊性と,日本における取り入れ方(たとえば訓読み)の特殊性にある。漢字は1字で音だけでなく意味も表示する文字であるから,その学習に際しては,ある程度の語の意味学習を伴う。そのため漢字を正しく読み書きするようになることは,英語でいえば単語のスペリングと意味を同時に学習していくのと似た効果があり,文字学習が知識や概念の一定の習得と結びつくという利点がある。しかし,指示内容(意味)の数に近いだけの字数があること,多くの字を区別するために形態が複雑になっていること,音読み(呉音,漢音などの区別もある)と訓読みを関連させて覚えねばならないことなどのため,その学習には多大の労力と時間が必要とされる。江戸時代の寺子屋から現代に至るまで,漢字教育に多くの時間をさいてきたのはそのためであった。それにもかかわらず,今日,まだ定型化された系統的な指導方法が確立されているとはいえないのが実状である。今後の実践的努力の蓄積の期待される分野であるが,その際,ある程度の系統的指導の可能な字は,それを配慮して教える(たとえば〈言〉と〈舌〉を教えてから〈話〉を教える),読本の中での用法とともに教えるだけでなく,熟語づくりや用例捜しなどと並行して学ばせる,漢字の発生,種類,作られ方,読み方の規則などをとりたてて学ばせる(漢字文化の学習)などを重視する必要がある。なお学習すべき漢字数は,旧学制時代は義務教育6年間で約1360字もあったことの反省から,第2次世界大戦後は1948年に〈教育漢字〉881字を定め,これを9年間の義務教育期間に学べばよいということになった。この数は58年に6年間(小学校)で学ぶべきことになり,68年には996字,89年には1006字となった。
執筆者:汐見 稔幸
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
表意文字の一つ。もと中国で、中国語を表記するためにつくられたが、のち、朝鮮、ベトナム(安南)その他周辺の諸国に伝わり、それらの諸国で使用されて、日本の平仮名・片仮名のような文字を派生したり、西夏(せいか)文字、契丹(きったん)文字、女真(じょしん)文字などの文字に影響を与えたりした。ベトナムでは、漢字に基づいた独特の文字「字喃(チュノム)」を発明したが、19世紀にフランスの植民地になって以後、ローマ字化が進んで、その文字は廃れてしまった。朝鮮では漢語の流入も多く、漢字が正式の文字・文語として長く使用され、古くは漢字の訓読や漢字に基づいてつくられた吏読(リト)、さらには日本の片仮名に類する訓点なども使用されたが、近時に至って、北朝鮮では、1949年に漢字が全廃されてハングルのみとなり、韓国(大韓民国)でもハングル化の傾向が著しい。中国本土においても、中華民国革命前後から国字改良運動がおこったが、中華人民共和国になって以後、1955年1月に「漢字簡化方案草案」が公布されて、字体の簡略化が行われ、その政策はその後もさらに推進されている。さらにまた、1957年には、漢語拼音(ピンイン)(中国語のローマ字綴(つづ)り)方案が公布され、漢字の旧字体は、現在では台湾と、韓国、日本の一部とだけに限られて行われる状態となった。
漢字の構成をみると、物の形や、抽象的な概念などを写したものや、それらを組み合わせたものなどがあって、その数は5万を超えるが、実際に文献で用いられるのは多くて6000~7000、日常よく使われるのは3000以内にとどまっている。
[築島 裕]
漢字の起源については、黄帝の史官倉頡(そうけつ)が、鳥の足跡を見てつくったとか、庖犠(ほうぎ)氏が八卦(はっか)をかたどってつくったとかという伝説があるが、特定の作者を決定することは困難であり、自然発生的におこったとみるべきであろう。現存する最古の漢字文献は、亀(かめ)の甲や牛の骨に刻まれた「甲骨(こうこつ)文」で、殷墟(いんきょ)から発掘されたものであり、紀元前15世紀ごろのものとされている。その字体はきわめて古風であって、象形文字に近く、実物の形を思い起こさせるようなもので、内容は占いの結果などを記すことが多い。それに次いで古いものは「金文(きんぶん)」といわれるもので、古い銅器に刻まれており、主として周の時代(前12~前3世紀)に行われた。しかし、この金文は、字体が多様で統一がなかった。伝説によると、周の宣王の太史籀(ちゅう)という者が、それまでの古体の字体を改めて「籀文」をつくったというが、これはのちに秦(しん)の時代に至って「大篆(だいてん)」ともよばれた。周の末ごろ春秋戦国時代には、諸国で種々の異なった字体が行われていたが、秦が天下を統一すると(前221)全国の文字を統一し、宰相李斯(りし)が籀文を改作した「小篆(しょうてん)」を天下に示して、それにあわない字体を禁止した。秦の時代にはまた「隷書(れいしょ)」が行われた。これは程邈(ていぱく)という人が獄中で考案したと伝えられるが、事務上の便利のために改作した実用的な文字であった。漢の時代(前2世紀~後3世紀)に入っても、前代から引き続いて「大篆」「小篆」「隷書」が行われた。通用字体としては「隷書」が用いられたが、そのなかにも種々の字体があった。それらは、現存する碑文や西域(せいいき)から発掘された木簡などによってみられるが、線が波形で筆端をはねる「八分(はっぷん)」が現れ、また楷書(かいしょ)の源流とみられるものもおこっている。また、前漢のころから、1字ごとに切り離した「章草」という草書もおこった。次の魏晋六朝(ぎしんりくちょう)(3~6世紀)のころには楷書が発達しているが、行書、連綿草も行われていた。それらは、法帖(ほうじょう)や敦煌(とんこう)から出土した写本などによって知られる。このようにして、唐の初め(7世紀)までに楷書、行書、草書などが出そろった。そのころ楷書のなかにも字体の異なったものが多くあったが、顔師古(がんしこ)が経籍の本文の誤りを訂正したときに、異体の文字を抜き出して「顔氏字様」をつくり、その子孫である顔元孫は、それを整理して『干禄(かんろく)字書』を著した。これは、正体、通体、俗体の別を立てて、それぞれの用途を示したものである。この後、異体の字はしだいに減少し、宋(そう)以後、印刷が発達するにつれて、標準的な字体が普及したが、写本などでは異体の字もいくらか行われていた。現在行われている活字体は、多く明(みん)時代(14~17世紀)以後の刊本の字体に基づいている。近時、中華人民共和国では、1955年以後、簡体字とよばれる新字体が制定されて一般に用いられているが、これは、旧字体の字画を簡略化したり、画数の少ない同音の音符を転用したりしたものである。一方、日本では、1946年(昭和21)に当用漢字1850字が公布されて、字数を制限し、49年には「当用漢字字体表」が出て、略字体が公認された。81年には常用漢字1945字が改めて公布され、そのなかに略字体も含まれることとなった。
[築島 裕]
漢字の構成と用法を6種に類別して説明するものを「六書(りくしょ)」という。象形、指事、会意、形声、転注、仮借(かしゃ)で、前の四つは漢字の構成法であり、後の二つはその使用法である。「象形」とは物の形をかたどったもので、絵画と似ており、象形文字の性格の強いものである。「日」「月」「山」「水」「木」「魚」「馬」など、目に見える物体を表すことが多い。漢字のなかでもっとも基本的なものだが、字数は少ない。しかし、これを基にして、指事、会意、形声などの構成法によって別の漢字がつくられることが多い。「指事」とは、形を模写できない抽象的な概念を表すもので、「一」「二」「三」などの数字や、「上」「下」などがそれである。数字は横の線の数により、「上」は「―」の上部に「・」、「下」は「―」の下部に「・」を加えたものから生じている。「会意」とは、二つまたは三つの文字の形をあわせると同時に、その意味をもあわせたもので、「炎」は「火」の重なったもの、「位」は「人」の「立」つ場所の意、「東」は「木」の中に「日」のある方角の意といわれている。「形声」は「諧声(かいせい)」ともいい、二つの字をあわせたものだが、一方からは音をとり、他方からは意味をとって新しく字をつくり、それによって新しい字の音と意味とを示すものである。「江」「河」の場合、左側の「氵」は「水」の意であり、「工」「可」は発音を示している。「問」「聞」の場合、外側の「門」は発音を示し、内側の「口」「耳」は意味を表している。「形声」の例はきわめて多く、漢字の大部分はこれによってつくられている。以上の4種類によってすべての漢字はつくられるのだが、漢字のなかには、つくられた当初の用法ばかりでなく、のちになってから他の意味に転用されるものもある。「転注」とは、一つの語が、本来の意味から転じて、新しい意味をもつようになったとき、新しく別に文字をつくらないで、もとの意味を表す文字を転用して、新しい意味を表すものである。たとえば、「令」はもと号令の意味であるが、それから転じて号令を下す人、長官などの意味にも用いる。また「楽(ガク)」は本来音楽の意味だが、音楽は人の心を楽しませることから「たのしむ」の意味に用い、音も「ラク」と転じた。また、音楽は人の好み願うものであるから「願う」の意味にも用い、音も「ゲウ」(ギョウ)となった。次に「仮借(かしゃく/かしゃ)」は、意味とは関係なしに、同じ音の他の語に通用するものであって、たとえば、「革」は「皮革」の意味であるが、同じ「カク」の音で「あらためる」の意味にも用いる。また「耳」は本来「みみ」の意味だが、ジの音から「のみ」という助辞に用いるなどである。また、古く中国では、インドや中央アジアなど外国の人名・地名などの音を漢字で「身毒(しんどく)」「阿弥陀(あみだ)」などと写したが、これも「仮借」の一種とみることができる。
[築島 裕]
漢字の字形が、左右、上下、内外など二つの部分に分けることができる場合に、左の部分を「偏(へん)」、右の部分を「旁」(ぼう・つくり)、上の部分を「冠」(かん・かんむり・かむり)、下の部分を「脚(きゃく)」という。また、上部と左部とにまたがるものを「垂(たれ)」、左部から下部にまたがるものを「繞(にょう)」、上部と左右から挟むものを「構(かまえ)」という。「偏」には「亻」(人・にんべん)、「口」(くちへん)、「忄」(心・りっしんべん)、「氵」(水・さんずい)、「犭」(犬・けものへん)など、「旁」には「刂」(刀・りっとう)、「阝」(邑・おおざと)、「隹」(「鳥」の古い字体・ふるとり)など、「冠」には「宀」(うかんむり)、「艹」(くさかんむり・そうこう)、「脚」には「灬」(烈火・れっか)、「垂」には「广」(まだれ)、「疒」(やまいだれ)、「繞」には「辶」(しにょう・しんにょう)、「構」には「門」(もんがまえ)、「囗」(くにがまえ)などがある。漢字を字形のうえから分類して配列した辞書が古くからつくられたが、その際の項目として前記のような偏旁などをたてたとき、それらを「部首」という。部首の数は、古来、辞書によって、多くは500以上に及ぶものから、100に満たないものなど、さまざまであるが、現在では『康煕(こうき)字典』のたてた214部首が広く行われている。
[築島 裕]
漢字にはかならず一定の発音がある。中国における発音は「漢字音」「字音」「音(おん)」「こえ」とよばれるが、それは時代により、また地域によって大きな変遷・相違があった。さらに、朝鮮、日本、ベトナムなどに伝来した漢字は、それぞれの国で特有の字音が行われた。ことに日本では、字音のほかに、日本語の訳語を漢字に定着させた独特の読み方がおこり、字音と併用された。これを「和訓」「訓」「よみ」などという。字音の分類は、頭子音によるものと韻(いん)(漢字音全体から頭子音を除いたもの)によるものとがある。頭子音の種類は、10世紀ごろの音を基にしたという『韻鏡(いんきょう)』では23種に大別し、韻の数は、7世紀ごろの北方音によるという『切韻(せついん)』では四声調206韻に分類している。しかし後世は減少して、『壬子(じんし)礼部韻』では107韻とし、さらにそれから1韻を削った106韻が現代に至るまで、漢詩をつくるときなどに行われている。声調(アクセント)は普通、四声(しせい)(平声(ひょうしょう)、上声、去声、入声(にっしょう))に分けられるが、そのなかの入声は、-p,-t,-kで終わる音で、現代中国の標準語音には存在しないが、古代漢字音に存在し、現代も一部の方言音には残り、日本漢字音では変形して現存する。四声のほかにも、古代の日本漢字音には、六声、八声などの別をたてたことがあった。
[築島 裕]
日本における漢字の読みとして、日本漢字音(字音、音)があるが、そのほかに、日本語の訳による読み方が漢字に定着し、和訓(訓、よみ)となった。「生」について、「セイ・ショウ」は字音であり、「うむ・いきる・なま・き」は和訓である。字音のなかには、呉(ご)音、漢音、唐音(宋(そう)音)などの種類がある。「行」について、呉音はギョウ、漢音はコウ、唐音はアンである。呉音は中国揚子江(ようすこう)沿岸地方の音で、たぶん朝鮮を経由して伝来したもの、漢音は中国北方の長安(いまの西安)地方の音で、呉音に次いで伝来したもの、唐音は10世紀以降に伝来したものといわれる。和訓は日本独自の読み方だが、その成立は7世紀以前にさかのぼるであろう。呉音は古くから仏教の経典の読み方などに用いられ、また文物調度品の名前や、ごく古く国語のなかに入った漢語なども呉音が多い。「和音」といわれたものは呉音に近い性格をもつ。漢音は、奈良時代以降、朝廷が「正音(せいおん)」として普及に努め、漢籍や一部の仏書には用いられたが、それ以前から行われていた「呉音」を排除するには至らず、両者併用されてきた。明治時代以降、欧米から輸入された新しい文物や思想学術の用語を翻訳するにあたって、多く漢音を用いた漢語がつくられたが、なかには「言語」(げんご。「げん」は漢音、「ご」は呉音)のように漢音と呉音とを併用する単語が生じた。このような併用は、江戸時代以前にはあまりみられない形式である。「唐音」は「宋音」ともよばれ、主として鎌倉時代以後に伝えられたもので、中国南方の音といわれる。時代によっていくらかの相違があり、禅宗の仏書やある種の事物の名称として用いられ、「看経」(かんきん)、「行灯」(あんどん)、「蒲団」(ふとん)、「普請」(ふしん)などの例があるが、数は少ない。
このほか、「慣用音」と称するもので、前記のうちのいずれでもないものがある。「輸」をユ(正しくはシュ)、「耗」をモウ(正しくはコウ〈カウ〉)などがそれで、多くはその旁(つくり)などに引かれて誤読したものだが、一般に通用して認められているものである。また、古くは漢字音の表記法のなかで一定しないものがあり、たとえば末尾のnの音を、後世では「ン」と書くのに対し、「ニ」または「イ」と記したことがある。「ぜに」(銭)、「れいぜい」(冷泉)などはその名残(なごり)と考えられる。なお、漢字音と和訓とが一語のなかに併存するものがある。「重箱」(じゅうばこ)、「縁組」(えんぐみ)のように、上に字音、下に和訓のくるものを「重箱読み」といい、「湯桶」(ゆとう)、「赤本」(あかほん)のように、上に和訓、下に字音のくるものを「湯桶読み」という。平安時代から例があるが、中世以降にはことに俗語のなかに多く用いられた。
[築島 裕]
日本に漢字が伝来したのは、紀元1世紀までさかのぼるといわれるが、日本の地で記された文献のなかでは、5世紀から以後のものが現存している。当初は漢字だけで書かれた漢文であったが、そのなかに日本の地名や人名を表音的に書いたもの(万葉仮名)が古くから用いられており、それが基になって、9世紀以後、日本語独特の文字として「平仮名」「片仮名」がつくりだされた。奈良時代(8世紀)までは、日本で書かれた文献はすべて漢字ばかりであったが、『日本書紀』のように、正式な漢文で書かれたものばかりでなく、『古事記』のように、日本化した要素をもつ「和化漢文」もあり、また和歌などを記すときには、『古事記』や『日本書紀』などのように、1字1音の万葉仮名を連ねて書くことと並んで、『万葉集』のなかにみられるように、漢字の和訓と万葉仮名とを併用する書き方があり、その万葉仮名のなかにも、漢字の字音による「音仮名」と並んで、和訓の音による「訓仮名」も行われていた。平安時代(9~12世紀)に入って、平仮名、片仮名が発明された。平仮名は、当初はそれだけで単独で文を綴(つづ)ることが多かったが、のち、しだいに漢字を交えることが多くなり、中世に入ると「漢字平仮名交り文」が盛行するようになった。片仮名は、最初は漢文の訓読などの注記用として補助的に使用されるにすぎなかったが、早くから漢文の訓点に模した「漢字片仮名交り文」がおこり、僧侶(そうりょ)などの間でしだいに発達して、12世紀ごろには、仏教関係の文献はもとより、説話なども広く記されるようになった。
一方、片仮名だけで和歌を書く風習はすでに10世紀のころからあり、最初は私的な覚え書きなどに限られていたであろうが、やがて撰書(せんしょ)のなかなどにも用いられるようになった。これは、片仮名という文字が発達して独立性、社会性を高め、漢字に肩を並べる力を得たことを反映するもので、藤原公任(きんとう)の『大般若経(だいはんにゃきょう)字抄』(1032ころ成立)のように、漢字の音訓を注記した注釈書のなかに片仮名が併用されるのも、これと一連の現象である。このようにして、中世以降は、漢字ばかりで書かれた漢文のほかに、漢字と平仮名や片仮名を交えた文が併行して使用されたが、それらのなかで、漢字は終始、文字としてもっとも高い価値を担い、仮名(かんな=仮〈かり〉字〈な〉の意)に対して、「まな」(真名)とよばれ、国語を表す文字の中心をなしてきた。もと仮名で書かれた文献をのちに漢字に改めた「真名本(まなぼん)」の出現も、その一つの例であろう。「真名本伊勢(いせ)物語」「真名本平家物語」などが伝えられている。また、本来の漢字では表現できない日本独特のことばは、仮名で書くのが普通であったが、漢字の形に似せた「国字」がつくられたのも、同類の例であろう。「榊(さかき)」、「噺(はなし)」、「峠(とうげ)」、「凩(こがらし)」、「辷」(すべる)、「辻(つじ)」、「込」(こむ)、「鱈(たら)」などはその例で、多くはその意味によって2字以上の漢字を合成したものである。また「麿」(麻+呂)、「杢」(木+工)のように、二つの文字をあわせて1字としたものもある。なお、本来の漢字の意味とは別に、日本で定めた意味をあて和訓としたものがある。たとえば、「萩」はもと「よもぎ」の意だが、日本では秋の草花の名とし、「沖」はもと「空しい」または「深い」の意だが、日本では海辺から遠い海上をさすなどである。さらに「鋲(びょう)」、「腺(せん)」、「粁」(キロメートル)のように、欧米の文物の輸入によって新しくつくりだした漢字がある。
[築島 裕]
大陸から漢字を受け入れてから約1500年の間、日本では漢字を文字の中心として尊重してきた。しかし、明治以後、欧米の合理主義思想によって、漢字のかわりに、表音文字である仮名またはローマ字を使用しようとする主張がおこり、太平洋戦争ののち、その方向に沿った国字政策が行われ、1946年(昭和21)に当用漢字1850字が公布されたが、やがてそれに反対する風潮が強くなり、その音訓を増加し、さらに文字を増加して、1981年に常用漢字1945字が改めて公布された。そして、その方策も、「規制」から「目安」へと軟化した。その後、2010年(平成22)に改定が行われ、常用漢字は2136字となっている。
終戦から現在に至るまでの間に、国民一般の知的水準は向上したが、漢字についての関心は低下し、仮名、ことに片仮名による外来語が激増して、国語表記の実態は大きく変わり、漢字の減少は、単に文字だけの問題ではなく、文章の文体までも変化させるに至った。一方、初等教育においては、教育漢字(当用漢字のなかの881字で、義務教育で読み書きができるように教えるもの、のちに若干増加)、常用漢字の枠に限定されて、楷書中心に傾き、行書や草書は急激に衰えた。テレビや印刷文化の発達も大きな原因であろう。近時は、漢字の単純化・画一化の時代といってよいであろう。
[築島 裕]
『林泰輔著『漢字要覧』(1908・国定教科書共同販売所)』▽『岡井慎吾著『漢字の形音義』(1916・六合館)』▽『山田孝雄著『国語の中に於ける漢語の研究』(1940・宝文館)』▽『橋本進吉著『国語学概論』(1946・岩波書店)』▽『藤堂明保著『漢字語源辞典』(1965・学燈社)』▽『白川静著『白川静著作集』全12巻(1999~2000・平凡社)』▽『白川静著『常用字解』(2003・平凡社)』▽『B. KarlgrenÉtudes sur la phonologie chinoise (1915~24, Uppsala)』
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中国や日本で現在用いられている文字。その確かな起源は,殷(いん)代後期の甲骨に刻まれた象形文字に求められる。その後,殷周青銅器の金文(きんぶん)をへて春秋・戦国時代には多様な字体が用いられた。秦の始皇帝は秦の新しい字体である小篆(しょうてん)に全国の文字を統一した。漢代になると毛筆の普及に伴い隷書(れいしょ)が,三国では楷書(かいしょ)が流行し,現在に及んでいる。漢字は東アジアの文字形成に大きな影響を与えた。日本の仮名,朝鮮のハングル,ベトナムの字喃(チュノム)などは漢字を起源としている。
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…日本語の中に用いられる,中国から借用した単語,またその造語成分を用いて日本で新たに合成した語。漢字での表記が定まっており,その発音は,上代以来の日本字音に従っている。中国現代音で借用するものは漢語といわないが,現代語が漢字によって日本字音で漢語の列に借用されることもある。…
…中国で,従来正字体とされてきた筆画の多い漢字,いわゆる繁体字に対し,画数を減らして簡単にしたものをいう。簡化字ともいう。…
…日本語の表記を簡単にやさしくし,正しい日本語を日本人が読み書き話すようにしようとするために生じてくる,種々の文化上の問題をさす。
[問題の発生]
明治初年ヨーロッパと交通が開けてみると,アルファベットの簡単な西洋語にくらべて,日本語が多くの漢字を学習せねばならず,文字学習の負担が大きいことを見て,これを改革しなければならないと考える人々が現れた。それとともに仮名遣いや送り仮名法の問題も考えられ,江戸時代封建制度の下にはなはだしくなった各地の方言を統一して一つの標準語を確立しなければならなくなった。…
…個々の漢字の示す音(オン)。中国語以外の言語では,中国語の字音をその漢字と共に借用して自らの言語に順応させた音をいい,特に〈漢字音〉とも称する。…
…これも古英語ではberanとberaのように区別されていた。日本語でも同音語は多いが,それにもかかわらず,漢字による表記の違いによってその意識が薄められている。〈説く〉と〈解く〉,〈書く〉と〈搔く〉などは,発音とかな(仮名)表記ならばbearと同類だが,書けばsonとsunの関係に類似している。…
…片仮名,平仮名に対して,真仮名(まがな)ともいう。広い意味では,漢字一つ一つを本来の表意文字としてではなく,日本語の表音のために借り用いる用法のすべてを含めていう。狭い意味では,そのうちの漢字1字が日本流の1音節を表す仕組みになっている用法を指す。…
…なお,草書,行書,楷書とか,ゴシック,イタリック,とかいうような文字体系の全体にわたる字体のちがいは〈書体〉といわれる。一方,字をその構成要素に分析して,たとえばAは,aと〈大文字化〉,という二つの要素から成るとして,それぞれを〈グラフィームgrapheme(字素)〉と呼ぶ試みもなされ,漢字の声符,義符などの構成要素もそのような扱いをしようとする試みもあるが,分析の客観的規準を見いだすのが困難で,研究の進展がみられない。
【文字言語の諸特徴】
このように,文字は(音声)言語を目に見える形であらわす記号の体系であるといいうるが,音声言語行動のすべての面を書き表すことはないのが普通である。…
…読み書きそろばんが人々を鋳型にはめこむのではなく,一人一人に潜在する可能性を引き出し,創造性を育てる役割を果たさせることが必要であり,それを実現できるような教育の確立が求められている。識字運動【山住 正己】
【日本】
[古代]
日本古代での読み書きは,中国大陸や朝鮮半島から渡来した人々やその子孫について,漢字を学習することから始まった。だが漢字は日本語を表記するための文字ではないので,初めのうちは漢字の意味と関係なしに字音だけを借りて日本語の人名や地名など固有名詞を表記し,文章全体は漢文すなわち中国語で表記せざるをえなかった。…
… また,琉球語の語彙の中には,漢語をふくめ本土方言からの借用語が多数あるが,ほかに,琉球王国が中国への進貢貿易を行っていた関係で,本土方言を経由せずに直接中国語から借用された単語もある。14~15世紀に起きた国家の形成は,この地域でも文字の必要を生み,それにより本土からかな文字と漢字とが導入された。公用の文書ははじめ和文,ついで漢文で書かれ,漢文の読み方には中国からもたらされた中国音式のものと,本土から入った訓読法の二通りが行われた。…
※「漢字」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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