ここに漢文というときの〈漢〉とは漢王朝のことであり,したがって,本来は漢の文字(漢字)で書かれた文章という意味である。だが,日本において〈漢〉とは中国というのとほぼ同義に用い,漢文とは広く〈漢字で書いた文章〉という意味で理解されている。周知のごとく,日本では日本語を書き表す独自の文字は生みだされなかった。そこで,古代から,日本語とは言語体系を異にする中国語(中国語は単音節語でありしかも孤立語であるが,日本語は多音節語であり膠着(こうちやく)語である)を書き表す漢字を利用し日本語を書き表そうとしてきた。そのなかには,正格の漢文ばかりではなく,破格の日本語の語順に従って漢字を並べて書き表した部分をも含む,一般に変体漢文(変態漢文)と呼ばれるものもある。日本において広義に漢文というとき,こうした変体漢文をも含めている。
漢文が果たした役割のうえでもっとも根源的と思われる点は,音声言語しかもたなかった日本人が漢字という文字言語をもち,それによって歴史,風土を記述し,神話,伝承,歌謡などをも記録しえるようになったことにある。もちろん,こうしたことが可能になった背景には,古代の日本人が中国本土,朝鮮半島からの渡来人の手引きによって,漢文を日本語で読み解く方法を考えだし(漢文訓読),みずから漢文を書く経験を積み重ねてきたということがある。しかもこうした経験を通して,漢文が負っている制度,思想,文学など,広く中国の文化が享受されたことも見逃しえない。古代国家の成立とともに律令制度をとりいれ,おおむね正格の漢文で書いた《日本書紀》などの国史を編纂した点に,端的にその享受の態度があらわれている。一方,変体漢文で書かれたものも,すでに7世紀ごろの金石文などにみられる。たとえば《元興寺露盤銘》(596),《法隆寺如意輪観音菩薩造像銘》(606?)などがあげられよう。この流れは《万葉集》などにみられる歌謡の漢字による表現を可能にし,《古事記》にみられる神話の記述をも可能にした。とりわけ,万葉仮名と呼ばれる漢字の使用方法を生みだし,しかもこの万葉仮名は平安朝における平仮名,片仮名の母体ともなった(仮名)。しかし,平仮名,片仮名が生みだされたのちも,漢字で文章を書くことは行われ,公文書,公家日記などはもちろんのこと,もともと平仮名で書かれたと思われる《伊勢物語》にも真名(まな)本と称する漢字のみで書かれた写本が存在するほどである。
中世においてこの傾向はいっそう強く,《平家物語》《曾我物語》などの軍記物語の諸本においても真名本がみられる。このことは,漢字で文章を綴ることへの価値意識が背景になっているとともに,漢文が僧侶を含めた知識階級にとって必須の教養であったこと,さらには,漢字が1字1音の平仮名にくらべて表意的であるという文字言語としての特徴にも由来すると思われる。また,漢文を訓読した訓読文は,現存の漢字仮名混じり文の母体であり,《今昔物語集》の文章はその先駆けといえるだろう。近世においても漢文の役割は依然として変わらず,江戸時代の学問の中心をなす。たとえば,《古事記伝》を著し近世国学の主流を築いた本居宣長は,《日本書紀》が正格の漢文体で書かれ漢文として必須の故事,出典を踏まえていることを〈漢意(からごころ)〉による潤色とみなし,《古事記》が同じく漢字で書かれているにもかかわらず古意を伝えていると述べている。しかし,その宣長の《古事記》を読み解いてゆく方法は,儒学者荻生徂徠がうちたてた〈古文辞学派〉の精神を背景としている,という逆説がみられる。このように,漢文によって思考し,みずからの考えを表現することが,日本の文化全体に及ぼした影響ははかりしれない。明治になって,外国語をとりいれるとき漢文が果たした役割,たとえば〈理想〉〈概念〉などの訳語をみるだけでも,そのことは知られよう。
漢籍の伝来は《古事記》《日本書紀》の記述によれば応神朝とされ,ほぼ4,5世紀ころ中国古典,小学書などが将来されたと思われる。だが,伝来の当初漢文を読み書きしたのは,多く中国本土,朝鮮半島からの渡来人であった。日本人の漢文習得に渡来人の果たした役割は大きいが,日本人が本格的に漢文を習得した痕跡があらわれるのは推古朝である。すなわち,聖徳太子の十七条憲法《三経義疏(さんぎようぎしよ)》などがその成果である。また,この時期にはじまる遣隋使(のちには遣唐使)などは,組織的な漢文受容として大きな役割を果たした。しかし,漢文らしい漢文を書くためには故事,出典を踏まえなければならず,文字どおり万巻の漢籍に通暁(つうぎよう)することは日本人にとって困難なことであった。そうした困難を緩和するものとして,〈類書〉と呼ばれる故事を集め分類した,いわば百科事典のごときものが利用された。古代においてもっとも利用されたものに《芸文類聚(げいもんるいじゆう)》《初学記》があり,また小学書(漢字辞典のようなもの)と類書の性格を備えた《玉篇(ぎよくへん)》があった。この《玉篇》は,当該の漢字の字義を知ることができるとともに,その漢字が用いられた用例と出典をも知ることができるものであった。平安時代に入って,空海が詩論と作詩書の性格を兼ねた《文鏡秘府論》を著し,また《玉篇》の漢字辞典としての部分だけを抜きだした辞書《篆隷万象名義(てんれいばんしようめいぎ)》をも作った。こうしたものをもとに漢和辞典の先駆けとしての性格をもつ《新撰字鏡》が作られ,そののち《類聚名義抄》などの字書が作られた。
また一方では,詩文を作るための手引書として《作文大体(さくもんだいたい)》などが作られた。これは正格の漢詩文を作るためのものであるが,和習を含んだ書簡文のための範例文集とでもいうべき《明衡(めいごう)往来》《庭訓往来》などの往来物も作られた。この類のものには,正倉院文書として残存する聖武天皇妃光明子の手写になる《杜家立成(とかりつせい)》があり,その辺に淵源すると思われる。中世に入って,漢詩文の主流は五山の僧侶たちの手に移る。前期はそれらの僧侶の詩文の創作が中心であるが,一方では五山版と称する漢籍の出版も盛んに行われた。室町後期になると,詩文に対する注疏の学が盛んとなり,《江湖風月集抄》《中華若木詩抄》などの〈抄物〉があらわれ,これらの成果が中世の文学作品にみられる故事,出典の引用の基盤を作っていったと思われる。
また,この〈注疏の学〉は儒学にも及び,《史記抄》などが作られ,やがて近世の朱子学派を生みだす基盤ともなった。近世に入って,荻生徂徠の《訳文筌蹄(せんてい)》,伊藤東涯の《用字格》などの語法書が儒学者の手によって多く作られた。このように日本における漢文受容の方法は,故事,出典に対する関心と漢字の字義を了解する作業との二つの側面をもっていたといえよう。
執筆者:丸山 隆司 明治以後も近世以来の伝統は大学の漢文学科,中国哲学科などに継承され,民間にも漢詩の結社や漢文塾などが少なからずみられた。中等教育では明治国家の儒教的教育理念に支えられて,国語科とともに漢文が重視され,いわゆる〈英数国漢〉として主要科目の一つとみなされていた。敗戦後,漢文は国語科の一部分として扱われ,高等学校では選択制とされたが,1952年〈東洋精神文化振興に関する決議案〉が衆議院で可決されるなど漢文復活の論議が盛んとなり,60年の学習指導要領改訂により国語科必修科目に含められ,63年以後実施された。
→漢語 →漢字 →漢詩文
執筆者:山田 昇
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文章の一つ。漢字のみでつづった文章、すなわち中国の文章をいう。ただし日本では古来固有の文字をもたなかったので、中国の文字を借りて自分の言語を表現したが、日本語は中国語と言語体系を異にするので、中国と異なる漢字の使用法が生まれた。日本語を表記するために漢字音を用いた上代の万葉仮名の文章や、中国と異なる漢字の意義用法に従ってつづった後世の変体漢文や候文などは、通常漢文のなかには含まない。
[大曽根章介]
わが国は古代から中国の制度文物を輸入して自国の文化の発展に努力してきたので、漢文の理解だけでなくその作成が要求され、中国文化への崇拝の念が漢文に対する尊敬となり、長い間正式の文章を漢文で書くことが天下を支配した。古代では漢字の使用が史官の記録に限られ、彼らは中国・朝鮮からの渡来人が中心をなしていたと思われる。現存最古の文章は推古(すいこ)天皇時代のもので、聖徳太子の『十七条憲法』や「伊予温泉碑文」などには古文ながら文章の修飾への留意がみられる。大化改新後しだいに制度も整備し多くの漢籍が将来され、奈良時代には六朝(りくちょう)から初唐にかけて流行した駢儷(べんれい)文が大きな影響を与えた。漢文の代表である「令(りょう)」と『日本書紀』を中心に、詔勅、詩序、伝、賦など種々の文体(文章の種類)が出現した。そしてこの時代に漢字を和訓によって読み、漢文を日本語の語順に従って読み連ねる訓読が行われるようになり、以後長い間継承されていく。平安時代になると駢儷文は頂点に達し、華麗な表現を尊ぶ美文意識が文壇を席捲(せっけん)した。当時の文章は文体によって一定の形式があり、どの作品も内容が大同小異であるので、人々は対句の巧拙によって作品を評価した。このような風潮から『和漢朗詠集』をはじめとする秀句選が生まれ、『本朝文粋(もんずい)』のような名文の編纂(へんさん)が行われた。一方、中国の詩文論を集めた空海の『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』を継いで、『作文大体(さくもんだいたい)』などの文章作法書に対句の種類や句型が論じられた。平安後期から鎌倉時代にかけて僧侶(そうりょ)の手で表白、願文(がんもん)の類纂が行われたが、その文章は和習(日本的な習癖)の強い駢儷体で終始している。また『王沢不渇鈔(おうたくふかつしょう)』や『文筆問答鈔(ぶんぴつもんどうしょう)』のような作文指南書や『文鳳抄(ぶんぽうしょう)』のような詞句熟語集が出現した。
鎌倉末期から室町時代になると文化の中心が貴族から禅林に移行し、文章の世界においては中唐におこった古文復興運動が将来され、駢儷文が否定されて散文の文章が書かれた。しかし禅林の公的文章には四六文が必要であり、元(げん)の笑隠大訢(しょういんたいき)の『蒲室集(ほしつしゅう)』がもたらされてからは、それを手本にして名文家が輩出し、また四六文の作法書が書かれ、『蒲室集』の講義が行われた。ただ禅林の四六文は公的な文章に限定され、規則が厳格で声律が重視されるなど、従来の駢儷文とはまったく異なる。
[大曽根章介]
江戸時代になると、朱子学の隆盛と相まって文章は道徳に従属するという文章観が信奉され、先秦(せんしん)の古文が師とされた。中国の文章論に基づく藤原惺窩(ふじわらせいか)の『文章達徳綱領(ぶんしょうたっとくこうりょう)』以下多くの文法書が出現したが、これらは文章の体段と種類についての論で、当時流布した『古文真宝』の講説鈔解(しょうかい)や『文章弁体』『文体明弁(めいべん)』の影響によるものと思われる。ただ江戸初期の儒者の文章は和臭(日本的な特殊な傾向)を免れず、欠点が多かった。荻生徂徠(おぎゅうそらい)は従来の和訓顛倒(てんとう)の読み方を拒絶し、中国語の履修を説くとともに古文辞学を提唱して、宋(そう)以後の文章を廃した。彼は文章の修辞を尊び、和臭を避けるために古典の辞句の模擬転用を説き、自ら実践した。この説は一世を風靡(ふうび)したが、模擬剽窃(ひょうせつ)が大きな弊害を生んだため、多くの学者によって攻撃された。山本北山(やまもとほくざん)、中井竹山(なかいちくざん)、皆川淇園(みながわきえん)らは徂徠の説を否定し、漢文の熟読と覆文(漢人の文章を国字に直しふたたび原文に復すること)の訓練によって中国人の文章に近づくことを説いた。しかし新しい文章論は樹立されず、ふたたび道徳的文章観が学界を支配した。ただ作文に気魄(きはく)の尊重と人格の陶冶(とうや)が尊重され、個性の発揮が強調された。そのため和臭が除去されて、斎藤拙堂(せつどう)、頼山陽(らいさんよう)などの名文家が輩出し漢文の全盛時代を迎えた。だが明治維新により西欧文化が浸透するにつれて、漢文はしだいに衰退滅亡していった。
[大曽根章介]
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…また一方ではこの文字はその表す語の音韻構造を分析的に示すことがなかったため,語の音韻形態を示すことが無効であるか,また不完全であり,その結果音からは遊離してしまい,語の音韻変化が行われても,その変化から超然とし,したがって文字は言語変化を超越して固定するに至り,かかる文字でつづられる文語が,ほとんど視覚的言語として2000年に近い長い年月にわたって使用されるという特異な現象を示している。漢文と呼ばれる古典文語がそれである。
【漢字の種類と造字・転用】
ふつう〈六書(りくしよ)〉と呼ばれる分類がある。…
…ただし漢字などはそれ以前にある程度伝えられていたかと思われる。以後帰化人の知識層に導かれて日本人の漢文学習が開始されたが,漢文は本来は日本語とはまったく構造の異なった言語であり,それを読み書きし,自由に駆使するには大きな困難と多くの年月を要した。
【古代】
6世紀の仏教経典の渡来は,漢字漢文の習熟の必要をいっそう高めるものであった。…
…日本語の散文は,一方では中国の〈文〉よりも口語に近く,時代による変化が著しい。他方では,漢文からの影響(語彙,修辞法)の度合いに応じて,同時代の文体も多様である。たとえば,《源氏物語》から,《好色一代男》《春色梅児誉美》を通って《大菩薩峠》に至る文体の変化は大きかった。…
…識字運動【山住 正己】
【日本】
[古代]
日本古代での読み書きは,中国大陸や朝鮮半島から渡来した人々やその子孫について,漢字を学習することから始まった。だが漢字は日本語を表記するための文字ではないので,初めのうちは漢字の意味と関係なしに字音だけを借りて日本語の人名や地名など固有名詞を表記し,文章全体は漢文すなわち中国語で表記せざるをえなかった。それでも漢文は中国や朝鮮諸国との外交には役だったから,大和の朝廷とその周辺では,渡来人とその子孫を主として漢字・漢文の学習が続いた。…
※「漢文」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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