翻訳|matter
「物質」という語にはほぼ三つの意味がありそうである。第一は俗に「物質万能の世の中」とか「物質主義」(「精神主義」に対して)とかいう場合の意味であり、これは現世におけるとりわけ金銭上の利益ということである。この意味の「物質」は、この項では扱わない。
[秋間 実]
第二は自然科学上の概念としての「物質」、すなわち、とりわけ物理学者が「最近の物質観」とか「空間・時間・物質」といった主題について語り、あるいは個々の「物質」の融解熱や発火点などについて数値をあげる、そういう場合の「物質」である。これは自然界を構成する諸要素のうち、生命のないものをさしている(生物については「物質代謝」が語られる場合にも、「物質」はこの意味で用いられる)。自然科学者は、このような物質の構造、性質、分布、歴史などを研究する。
第三は哲学のカテゴリー(根本概念)としての「物質」である。これは、レーニンが『唯物論と経験批判論』で与えた有名な定義にいうように、(1)意識とは独立に存在し、(2)われわれの感覚の源泉であり、(3)感覚を通じて意識に反映される事物・現象の総体、すなわち客観的実在をさしている。レーニンはこうも規定している。「物質の唯一の『性質』……は、客観的実在であるという性質、すなわち、われわれの意識の外にあるという性質である」「物質の概念は、認識論的には、人間の意識から独立して存在し、そして人間の意識によって模写される、客観的実在以外のなにものをも意味しない」。このような規定は、物質と意識とのどちらが第一次的・本源的であり、どちらが第二次的・派生的であるかという「哲学の根本問題」に対する解答として与えられた。
それでは、この哲学的物質概念と自然科学的物質概念とはどのような関係にあるのか。2点を指摘しよう。
第一に、自然科学の発展の結果として自然科学的物質概念の内容がどのように変化しようと、それは哲学的物質概念の内容にはなんら影響しない。両者を混同してはならない。
第二に、哲学的物質概念が適用される範囲は、自然科学的物質概念のそれよりも広い。それはもちろん自然を含むばかりではなく、自然の発展の過程で出現した人間社会――生産諸力の一定の発展に見合った生産諸関係を基本にして形成された、人間たちのさまざまな相互関係の総体――をも含むからである。
以下、客観的実在としてのこの物質についていくつかのことを述べよう。
[秋間 実]
物質を、なにか死んだもの、怠惰なもの、自分では運動しないものというように考えてはならない。現実に、物質は運動するものとしてあるのであって、運動を不可欠の属性としている。「運動」とはすべての変化をいう。運動しない物質はなく、物質を離れて運動はない。運動は、物質の永遠の存在の仕方にほかならない。これは弁証法的唯物論の基本認識である。小は素粒子から大は銀河系また超銀河系に至るまで、全自然界において万物が絶え間ない運動・変化のうちにあり、生成消滅をしていることは、自然科学の全成果が証明している。また社会生活においても絶え間ない運動・変化がおきている。人類社会が原始の時代から今日の段階まで発展を遂げてきたことを、生活の明証と社会科学の立証とに背いて否定できるであろうか。物質の運動は質的に多様な形態をとり、この諸形態は、低次なものから高次なものへの転化・移行という階層的構造をもちながら、全体として歴史的な合法則的な発展過程のうちにある。
[秋間 実]
これについては3点を指摘しよう。
(1)統一性 世界(自然・社会)のなかで万物は実に多様な姿を呈しているが、互いに無関係にばらばらにそうしているのではない。空間と時間とにおいて存在するものとして並存と継起(同時性を含む)という連関のうちにあるばかりか、因果性、相互性、階層性と歴史性などといった連関のなかにある。こうした多様な相互連関の究極の基礎は物質の統一性にある。すなわち、意識に対する物質の第一次性・本源性という唯物論の基本主張において表現されている物質的一元性にある。この意味でエンゲルスは『反デューリング論』のなかで「世界の現実の統一性は、その物質性にある」と述べたのである。
(2)恒存性 物質とその運動は不生不滅である。この見地は、いち早く古代ギリシア哲学において提起されたのち、キリスト教的創造説との対立の構図のなかで近世ヨーロッパ哲学においても受け継がれてきたが、19世紀になって、熱現象に関するジュールとマイヤーの仕事のうえにたってヘルムホルツが「力の保存」の原理を提示、これがのちにもっと正確に「エネルギーの保存と転化の法則」として確立されるに及んで、その自然科学的表現を手に入れることになった。
(3)無限性 物質とその運動の無限性とは、その多様な諸形態の全体においても、そのおのおの(たとえば、分子・原子の、あるいは素粒子の運動形態)においても、質的に限りなく豊富であり、その広さ・深さにおいても人間の手で認識され尽くすことはありえないということである。レーニンが当時発見されていた電子について「原子と同じようにくみ尽くされない」と述べたのは、端的にこのことをいったものである。人間にできるのは、現実には、それぞれの発展段階において物質とその運動についてそのつど相対的な客観的真理を獲得し、この相対的真理の蓄積の無限な系列を通じて漸次的に絶対的真理の獲得に近づいていくことだけである。
[秋間 実]
運動する物質全体は、先にも触れたように、さまざまな連関のうちにあるが、そのなかでもっとも基本的で普遍的なものが空間と時間である。「いっさいの存在の根本形式は、空間と時間であって、時間の外にある存在というようなものは、空間の外にある存在と同じくらいに甚だしい無意味である」(エンゲルス『反デューリング論』)。空間は物質の「並列性」の連関であり、時間は物質の「継起性」の連関である(「継起性」は「同時性」を自分の契機として含み、これを介して「並列性」と結び付いている)。というわけで、物質があるからこそ空間も時間もあるのであって、物質がなければ、空間もなく時間もない。これはとりもなおさず、空間も時間も客観的・実在的なものだということである。カントら主観的観念論に傾いた哲学者たちが空間と時間を直観や思考の秩序づけの原理だと主張したのは誤りである。これは「空間」「時間」という概念が、人間が世界を理論的にわがものにするのに使う道具だという事態を絶対化するところから生じたものにほかならない。さらにニュートンが空間を物質から切り離して物質を入れる容器のようにみなしたのも誤りであった。物理学のレベルで物質と空間と時間とが緊密に結び付いていて切り離せないことを確証したのはアインシュタインの相対性理論である。
[秋間 実]
自然諸科学の(まだきわめて乏しかった)知見に基づいて、自然の運動の諸形態を力学的運動形態から生物的運動形態へという、低次から高次へ(単純なものから複雑・豊富なものへ)至る階層をなすものととらえたのはエンゲルスであった。今日われわれは、この見地を受け継ぎ発展させて、現代自然諸科学の成果の哲学的一般化に基づき、全物質の運動諸形態の同じく上下に連なる階層的構造の格段に詳しく精確な――連続と非連続との統一という弁証法的論理を用いての――理解を手にしており、これに見合って、素粒子→原子核→原子→分子→巨視的物体→星→銀河→超銀河系という無機的物質の諸階層の系列(主系列)、および、分子→生体高分子→細胞→植物・動物→労働する人間とその社会、という有機的物質の諸階層の系列(枝系列)を認識するに至っている。しかも与えられた階層性を不変なもの、固定したものとみるのではなく、階層性を歴史性の表現ととらえることによって階層間の転化と移行を物質の歴史的発展の契機とみなしているのである。
[秋間 実]
世界の物質的統一性という見地は、すでに古代ギリシアの自然学者たち(最初の哲学者たち)のもとにみいだされる。西洋哲学は、こうして唯物論的世界観として出発した。古代最大の哲学者アリストテレスも、物質恒存の見地を守り、生成・運動の論理の確立に努力した。ローマの原子論哲学者ルクレティウスが「なにも無からは生じない」「なにも無へと滅びない」を自然の二つの根本原理としたのは特筆に値しよう。この見地に対して古代キリスト教会の教父哲学において「無からの創造」説が形成され、唯物論対観念論という哲学上の根本対立が、物質の第一次性・本源性をめぐる両見地の対立というきわめて鮮明な形をとることになった。近世の機械論的唯物論では、有機的生命の世界をも、人間の意識・社会生活をも、物理的自然界と同質的に取り扱い、この諸領域を一貫して力学の諸法則で説明しようとした。物質に機械的(力学的)運動形態しか認められていなかったことになる。その一方で、デカルトが運動量恒存の原理を提起したことは重要である。その後、マルクスとエンゲルスが意識に対する物質の第一次性・本源性を改めて明確にしたほか、それまでの唯物論の狭さを克服して、自然・社会における運動・変化・発展の論理を確立することに努めた。19世紀末から20世紀初頭にかけて、不変と考えられていた原子も崩壊することがわかり、原子が物質の究極の単位だという観念も崩壊するという「物理学の危機」が訪れた。観念論者たちがこれをとらえて「物質は消滅した。だから唯物論はだめになった」と宣伝したとき、レーニンは客観的実在としての物質という哲学的物質概念を明確に示し、これとそのつどの自然科学的物質概念とを区別しなければならないことを力説、彼らを徹底的に論破したのであった。
[秋間 実]
『岩崎允胤・宮原将平著『現代自然科学と唯物弁証法』(1972・大月書店)』▽『福田静夫著『自然と文化の理論』(1982・青木書店)』▽『有尾善繁著『物質概念と弁証法』(1993・青木書店)』
英語のmatterの訳語として成立した言葉で,いわゆる〈もの〉のこと。matterはラテン語のmateriaが語源であり,この語は本来は〈木の幹〉,つまり文字どおり〈素材〉(家を造る材木)を意味していたが,転じて,さまざまなものの材料一般を指すようになった。ギリシアでの〈質料hylē〉に相当し,motherも派生語の一つ。したがってもともと哲学的な議論を背景にして成立した概念といえる。現在では,一般に,空間のなかにある広がりを占め,人間の感覚によってその存在を確認することができるような何ものかは,すべて物質として理解される。この一応の定義は,デカルトによるところが大きいが,これに従えば,物質は第1に精神と対立する。なぜなら,精神は空間のなかに広がりをもたず,したがってまた,人間の感覚によってその存在を確認されることはなく,しかもデカルト的なコギト(われ思う)によって,その存在が明証的となるからである。第2には物質は空間と対立する。なぜなら,空間は,物質を容れる器のごとく,物質の存在を可能にするのに必須なものではあり,しかもそれ自体としては,人間の感覚によって覚知されるものとはならないからである。
こうした近代主義的立場に立って眺めてみると,古代においてこうした物質観に最も近いのはデモクリトスの原子論である。デモクリトスの原子論では,原子は感覚的性質をもたずに,容器としての空間のなかにあって,ひたすら運動をしていると考えられている。アリストテレスでは,真空が否定されたところから容器としての空間概念が存在せず,物質は,基体に熱/冷,湿/乾という四つの性質のうちから対立2項を除く二つの性質を加えることによって,土,水,空気,火の四つの原質が生まれ,その四つの原質の配合が万物を構成する,という物質観のなかで理解されていた。そして一面では質料hylēと形相eidosとによって物質を説明する形をとった。
スコラ学的文脈では,物質は,第1次的性質である色,味,においなど(近代哲学における第1性質,第2性質の区別と逆になることに留意されたい)によって感覚を通じて知られる,という意味でアリストテレス以来の経験主義的解釈の伝統にあったが,ルネサンス期の新プラトン主義の流入とともに,物質の概念は活性化された。パラケルススやブルーノ,カルダーノらは,物質のもつ基本的な特性の一つに運動を挙げ,物質自体のなかに,それをいきいきと動かす原動力があることを示唆した。これは,アリストテレスにおける運動の二分法(自然運動と強制運動)に基づく自然運動(物質自体の本性上の運動として,土,水,空気は宇宙の中心へ向かい,火は宇宙の中心から離れる運動を規定した)とは違って,アニミズム的,物活論的であった。物活論とアニミズムとの区別は微妙だが,アニミズムが物質とアニマの二元論的発想をとりやすいのに対して,物活論は物質一元論に傾きやすい発想といえよう。
こうしたルネサンスの新傾向は,コペルニクス,ケプラーはもちろん,ガリレイやニュートンにまで痕跡をとどめているが,一方デカルトを中心とする機械論哲学は,このような物活論的傾向に対する批判を出発点としていた。デカルトは,物質からはぎ取りうるすべてのものをはぎ取った。そして最後に,物質としての唯一決定的な成立要件として,〈延長〉に到達した。空間に広がりをもつ,という先のわれわれの定義の精密な形がここにある。こうしてデカルトは,物質自体に運動の原因を認めなかったから,彼にあっては物質の運動は,別に与えられなければならなかった。デカルトにとって,それゆえ,延長としての物質と,それに与えられた運動(およびその秩序)こそが,神による創造において神に直接由来すべきものとなった。その意味で,デカルトにとっては,物質と運動とは,神の手で最初に与えられて以来永遠に,神による終りが来るまで保存されるものとなる。
デカルトは,人間以外に関しては,いわば物質一元論をとった。これは,物質のふるまい(運動)によって自然界のすべての現象が説明できるという考え方を生んだ。デカルト自身は,真空を認めなかったために,ちょうどその生涯の途中でガッサンディによって積極的に紹介,導入された古代原子論と,その新しい展開にはくみしなかったが,人間を除く世界でのデカルト的物質一元論は,原子論と絡み合いながら,機械論哲学を形成することになる。18世紀啓蒙主義者のすべてが,こうした機械論的唯物論であったわけではなく,むしろ,ラ・メトリーの場合にも,物活論的傾向が隠されている。しかしこの時期にニュートン力学が数学的に洗練された結果,物質と運動のうちの運動に関しては,間然題するところのない(と思われた)因果法則を得,また物質そのものについては,原子論が整備された結果,〈ラプラスの魔〉に象徴されるような,根元的な機械論的唯物論の誕生をみた。ここではほとんど純粋にデカルトのプログラム,つまり世界を物質と運動によって記述するということが(原理的には)実現されているといえよう。
もちろん,物質を支配しているのは,力学的法則だけではない。少なくとも現象面でとらえれば,化学的なさまざまな法則がありうる。さらに生物の身体は確かに物質ではあるが,そこでも独自の法則が物質を支配していると考えられる。こうして19世紀には,個別諸科学が成立して,物質に関するさまざまな原理や法則をそれぞれのレベルで追究することになる。この意味で科学は物質に関する学問であるという言い方もできよう。一方機械論的かつ力学的な物質の支配に関しても,19世紀に入ると問題が生じた。運動にかかわる力は機械論的力学的力だけでないことが電磁現象への関心から明らかになり,そこから物質に対するもう一つの対立概念としての〈場〉の概念が生まれる。それまで,物質に力や影響を与えうるのは物質のみであると考えられてきたが,場の概念は,空間でありながら,しかも単なる容器として中立不干渉なのではなく,物質にある種の力や影響を与える,という発想に由来するものであった。とりわけ,物質の究極的安定性と保存性の事実上の根拠とされてきた分子,原子の構造がさらに微小化され,素粒子へと還元され,しかも今日素粒子は,古典的な物質粒子ではなく,むしろ場のある特定の状態と考えられるにいたって,物理学においては,物質のもつとされる明確な広がりや堅固な不可透入性は,ある意味で理論上すでに保持できなくなっているといえよう。
さらに19世紀以降,科学が取り扱うべき対象としての物質は,エネルギー,および情報という新しい概念によっても支配されていることが徐々に明らかになっており,その面から考えても,物質一元論がそのままでは通りがたくなっていることを付け加えねばならない。哲学的にみて,19世紀後半マルクス主義的唯物論が成立して,物質一元論が形而上学的に新段階を迎えたことは認められるものの必ずしも万人に説得的とは言いがたいのは以上のような動向と無縁ではない。
→物 →唯物論
執筆者:村上 陽一郎
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