中国,五代前蜀の建国者。在位907-918年。廟号は高祖。字は光図。許州舞陽(河南省舞陽県)の人。若いときは無頼の徒で,塩の密売などに従事し,〈賦王八〉と呼ばれていた。のちに忠武軍の兵卒ついで隊将となり,黄巣の討伐に参加。蜀に逃れていた唐の僖宗のもとに赴いて喜ばれ,観軍容使の宦官田令孜(でんれいし)(?-893)の養子にされた。みずから求めて西川監軍となった田令孜に代わって,観軍容使となった楊復恭によって,四川の壁州刺史に任じられた王建は,亡命者などを糾合して勢力を築き,891年(大順2),成都によっていた西川節度使陳敬瑄と監軍の田令孜らを殺し,ついに唐から西川節度使に任ぜられた。ついで,東川の地を,901年(天復1)には山南の地をも併合し,ほぼ四川全土を統一した。903年,蜀王に封ぜられたが,朱全忠が梁国を建てたのに呼応して,みずから帝号を称し,大蜀国を建て,都を成都においた。在位12年,72歳で没した。
唐末の混乱期に乱を避けて中原の地から四川の地へ逃れてきた貴族や文化人を礼遇したので,国土の豊饒さとあいまって文運が栄えた。1942-43年,成都市の西門外で王建の墓である永陵(前蜀王建墓)が発掘され,王建の座像が発見されたばかりか,棺座の周囲を24人の楽人の石彫でめぐらしているのが見つかった。舞者が2人で,楽器を奏する者が22人,すべて女伎であり,当時の音楽と楽隊組織を知る重要な資料として高く評価されている。そのほか,玉の哀冊文51簡と諡冊(しさく)50簡も出土した。
執筆者:礪波 護
朝鮮,高麗王朝の創始者,太祖。在位918-943年。祖先についてははっきりしないが,松岳(開城)地方に一定の勢力基盤をもち,海上貿易にも関係していた家系らしい。新羅末期,反乱軍の一首領弓裔(きゆうえい)に帰順してその部下となった。弓裔の部将として早くから軍事的才能を発揮したが,特に水軍活動において目ざましく,後三国期に弓裔の後高句麗国が西南海の海上権を掌握できたのは,もっぱら彼の功績による。909年に海軍大将軍となり,913年には侍中(首相)となったが,専制君主弓裔が暴君と化するや,918年,弓裔を放逐した諸将の推戴を受けて年号を天授と定め,王位についた。すなわち高麗の太祖であり,自己の本拠地である開城を都と定めた。弓裔に代わった太祖は,後百済との武力抗争を継続する一方,親新羅政策をとる。新羅の伝統的権威を吸収しようとしたのであるが,これは935年,新羅が高麗に降伏することによって実現された。後百済との武力抗争も高麗側に有利となり,936年,後三国は高麗によって統一される。統一後の太祖は,各地の豪族を武力や婚姻,人質をとおしていかに高麗国家の内部にとり込むかという課題に腐心したが,この問題は以後の諸王に受け継がれていった。
執筆者:浜中 昇
中国,中唐の詩人。字は仲初。潁川(河南省)の人。大暦10年(775),進士に及第。官は陝州司馬に至った。韓愈と忘年の友の交わりを結んだ。友人の張籍とともに,楽府(がふ)体の詩にすぐれ,白居易らの新楽府運動と密接な関連をもつ。宮中の様子をうたった七言絶句〈宮詞〉100首を代表作とするが,民衆の生活に取材した作品も異彩をはなつ。《王建詩集》9巻が伝わる。
執筆者:荒井 健
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朝鮮、高麗(こうらい)王朝の創始者(在位918~943)。廟号(びょうごう)は太祖。祖先については確かなことは不明であるが、松岳(開城)地方に一定の勢力基盤をもち、海上貿易にも関係していた家系らしい。新羅(しらぎ)末期、反乱軍の一首領弓裔(きゅうえい)の勢力が鉄円(鉄原)地方を中心に拡大すると、896年に帰順してその部下となった。弓裔の部将としての王建は早くから軍事的才能を発揮したが、とくに水軍活動において目覚ましく、後三国(こうさんごく)期に弓裔が西南海の海上権を掌握できたのは、もっぱら王建の功績によるものであった。909年に海軍大将軍となり、913年には侍中(首相)となった。専制君主弓裔が暴君と化するや、918年弓裔を放逐した諸将の推戴(すいたい)を受けて王位につき、国号を高麗と称し、自己の本拠地である開城を都と定めた。弓裔にとってかわった太祖は、900年甄萱(しんけん、あるいは、けんけん)によって建てられた後百済(ごひゃくさい)との武力抗争を継続する一方、親新羅政策をとった。新羅の伝統と権威の継承者としての地位を手に入れようとしたのであるが、これは935年、新羅最後の王である敬順王が高麗に降伏することによって実現された。後百済との武力抗争は、930年の古昌(こしょう)(安東)での戦闘を契機にして高麗側に有利となり、後百済側の内紛もあって、936年ついに高麗が後三国の分裂を収め朝鮮を統一した。しかし、統一後も地方の豪族は以前と少しも変わらない半独立状態を維持しており、彼らをどのように高麗国家の内部に取り込むかということが太祖および以後の諸王の課題となった。
[浜中 昇]
中国、中唐の詩人。字(あざな)は仲初(ちゅうしょ)。潁川(えいせん)(河南省許昌(きょしょう)市)の人。775年(大暦10)の進士。身分の低い寒門出身のため、官途についても栄進せず、地方官や大府寺丞(だいふじじょう)、侍御史(じぎょし)などの小官を歴任し、晩年には辺塞(へんさい)で従軍生活を送った。これらの境遇は彼を困窮した人民の同情者とし、文学活動において、平易な表現を旨とする民歌形式である楽府詩(がふし)を用いて、鋭く現実を批判し、中唐新楽府運動の一環を担わせることとなった。彼は親友で文学傾向を同じくする張籍(ちょうせき)と「張王」と併称され、「宮詞(きゅうし)」100首は当時世評が高かった。『王建詩集』10巻がある。
[伊藤正文]
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877~943(在位918~943)
高麗(こうらい)の太祖。京畿道松岳(開城)出身。新羅末に泰封(たいほう)国(901~918年,都は鉄原)を建てた弓裔(きゅうえい)の部将として活躍し,弓裔を追って高麗国を建国(918年),開城を都とした。新羅を併せ(935年),後百済(こうひゃくさい)を平定して朝鮮半島を統一(936年)。中国の五代諸国と通交し,諸制度を整え,仏教を保護し,西京(平壌(ピョンヤン))を設けて半島北西部を開拓するなど,高麗王朝の基礎を固めた。
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…風俗資料としても興味深い。8~9世紀,中唐の王建が宮詞100首を作って評判となり,以後ひとつの伝統となった。五代のとき蜀の王妃花蕊(かずい)夫人が,ついで北宋の王珪がやはり宮詞100首を作り,明末に王建と合わせ《三家宮詞》として刊行された(毛晋,汲古閣)。…
…891‐925年。軍卒より身を起こした王建が四川に建てた国。王建は891年(大順2)に西川節度使となり,東川,山南西道,さらに荆南の一部をも併せて自立化を強め,907年(天祐4)に唐が滅ぶと,みずから帝位につき国号を蜀と号した。…
…中国,四川省成都市の西郊にある五代の前蜀王,王建の墓。永陵という。…
…しかし,国境の軍事的要塞地帯にあるため,大規模な工業は開発されず,休戦線以北の旧京畿道地域の1市3郡からなる開城地区の行政・教育の中心地として,各種の地方委員会と学校などが集中した地方都市となっている。
[歴史]
新羅時代末に台頭してきた地方豪族,王建の根拠地であり,彼が高麗王朝を創建した翌年の919年から約470年間その王都として栄えた。北方に標高488mの松岳山があるところから松岳,松都等の名で呼ばれていたが,995年開城と命名され今日に至っている。…
…後期は元の支配下で苦しむ中で反元運動が進展し,また次代をになうべき新進の官僚層が生まれた時期である。
[前期]
高麗王朝をおこした王建は松岳(開城)地方の豪族で,初めは泰封の弓裔(きゆうえい)の部将として活躍したが,やがて弓裔を倒して王となり,高句麗の後継者であることを自任して国を高麗と号し(918),翌年,松岳を都にした。当時,新羅は慶州周辺で余命を保っただけであり,南西部は後百済が支配し,また諸方に豪族が割拠していた。…
…ところが新羅の支配力が衰えはじめる9世紀になると,各地で豪族が台頭してくる。そして彼らは,後三国(新羅,後百済,後高句麗)の内乱期を経る中でいっそうの成長をみせるが,後三国を再統一して高麗王朝を立てた王建も,このような地方豪族の一人であった。王建は各地の有力な豪族と積極的に姻戚関係を結び,彼らの力を借りながら,全国を再統一したのである。…
※「王建」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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