珠洲郡(読み)すずぐん

日本歴史地名大系 「珠洲郡」の解説

珠洲郡
すずぐん

面積:五三・八〇平方キロ
内浦うちうら

能登半島の東端に位置する。現在の珠洲郡は旧珠洲郡域の南部を占める内浦町のみであるが、旧郡域は北の珠洲市と、同じく西の能都のと町東部を含む。西の旧鳳至ふげし郡と合せ奥能登と称されるが、西が旧鳳至郡域の輪島市・柳田やなぎだ村・能都町と接するほかは、南・東・北の三方とも海に面する。平野は内浦の海岸部、若山わかやま川や九里川尻くりかわしり川の流域などにわずかに発達しているものの、郡域はほとんど奥能登丘陵の山並で占められる。最高峰は輪島市境のくろ峰とも称された宝立ほうりゆう(四六八・六メートル)で、珠洲市域に標高三〇〇―四〇〇メートル級の山嶺が続くほか、内浦町・能都町とも一〇〇―二〇〇メートル級の山地である。内浦と外浦を結ぶ国道二四九号が通り、内浦海岸沿いには第三セクターのと鉄道が敷かれている。珠洲市の外浦海岸一帯と、同市南東部より能都町の旧郡域辺りの内浦海岸一帯は能登半島国定公園に含まれ、九十九つくも湾・恋路こいじ海岸・金剛こんごう崎・仁江にえ海岸などの景勝や谷崎たんざき温泉・よしうら温泉・小木おぎ温泉などに恵まれる。

郡名は珠々郡・鈴郡とも書かれるが、珠洲の語源は当地の山野に茂る篠によるとも、近海でとれる鮑の明珠によるとも、またアイヌ語で岬を意味するスツ、シュツにかかわるともいう。近年、スス、スズの語源を珠洲岬の南に鎮座する須須すず神社の祭神御穂須須美命に由来するという説が出されている。これによればミホ(御穂)は美称で、ススミ(須須見とも)は「日本書紀」天智天皇三年(六六四)是歳条などにみえる烽(狼煙)の古訓「ススミ」に関係するといわれ、あるいは海辺の狼煙をあげる所の神という。この神社や珠洲岬の北西方には日本海に面して狼煙のろしの地名が残っていることも有力な証左といえよう。この説が妥当なものとすれば、能登半島の先端に位置する当地の歴史的性格の一端がうかがえて興味深い。旧珠洲郡を江戸時代、寛文一〇年(一六七〇)の村御印でみると、現珠洲市域は八一村・二万五千二〇四石余、内浦町域は二六村・五千九八八石余、能都町域は五村・三九六石余という内訳である(三箇国高物成帳)

〔原始・古代〕

郡最古の遺跡は内浦町不動寺ふどうじにあり、旧石器時代後期の掻器(エンドスクレーパー)が採取され、同末期(縄文草創期)の精巧な石槍先が珠洲市三崎みさき雲津竹沢もづたけざわや若山町中田井林なかだいばやしで出土している。縄文時代の遺跡としては高波こうなみフルヤ遺跡(前期末―後期前葉)が著名で、加護かご遺跡(中期末―後期初葉)北方山岸きたかたやまぎし遺跡(後期―晩期、現在は消滅)があり、いずれも同市域。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報