琉球処分(読み)リュウキュウショブン

デジタル大辞泉 「琉球処分」の意味・読み・例文・類語

りゅうきゅう‐しょぶん〔リウキウ‐〕【×琉球処分】

明治政府が琉球に対し、への冊封関係の廃止を求め、武力を背景に強制的に日本へ統合した過程をいう。明治12年(1879)琉球藩を廃し、沖縄県が置かれることとなった。

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共同通信ニュース用語解説 「琉球処分」の解説

琉球処分

1872年の琉球藩設置から79年の廃藩・沖縄県設置までの明治政府の一連の措置。日本と中国(清)両属の形だった琉球王国は滅亡し、日本に併合された。この間、清は激しく反発したが、明治政府は琉球に清への朝貢をやめるよう要求し、「明治」の元号使用や藩王尚泰しょうたいの上京を迫った。抵抗する琉球に明治政府は軍や警察を送って威圧し、首里城から尚泰を追い出して廃藩置県を強行、琉球藩は沖縄県となった。

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精選版 日本国語大辞典 「琉球処分」の意味・読み・例文・類語

りゅうきゅう‐しょぶんリウキウ‥【琉球処分】

  1. 〘 名詞 〙 琉球王国を沖縄県として日本に帰属させるために明治政府が行なった一連の政治過程をいう。明治政府は、明治四年(一八七一)の廃藩置県後、琉球を琉球藩として外交事務を管理したが、同地宗主権を主張する清は承認しなかった。そのため同一二年、警察、軍隊を派遣し、沖縄県の設置を強行した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「琉球処分」の意味・わかりやすい解説

琉球処分
りゅうきゅうしょぶん

1879年(明治12)に明治政府の手で行われた沖縄の廃藩置県のことで、これにより琉球王国は崩壊し沖縄県が設置された。なお後述のように、1872年の琉球藩設置から80年の中国(清(しん)国)と明治政府の外交問題である分島問題までの一連の過程(いわゆる琉球帰属問題)をさして広義に使う場合もある。

[高良倉吉]

背景

近世の琉球王国は三つの性格をもっていた。第一は、薩摩(さつま)藩を直接の管理者としつつ幕藩体制の一環に明瞭(めいりょう)に編成されていたことである。第二は、諸藩と異なり中国(清国)との間に伝統的な外交・貿易関係をもっており、国王は皇帝の冊封(さくほう)を受け、定期的に皇帝に進貢(朝貢)を行っていたことである。そして第三は、独自の王国体制をもって領内を直接的に経営していたことである。こうした状況を「日支両属」と指摘する研究者が多いが、最近では「幕藩体制のなかの異国」と規定する見解が有力になりつつある。というのは、日本・中国両国に属したとはいっても、日本(幕藩体制)への属し方はより実質的であり、中国への属し方は形式的側面が強かったと評価されているからである。

 明治維新により近代国家がスタートすると、当然のことながら琉球の位置づけが問題となった。領土確定問題としても琉球の処遇は一大案件であったが、明治政府は明確な方針をもたぬまま1871年の廃藩置県に際しては琉球をひとまず鹿児島県の管轄とした。同年11月、琉球内の宮古(みやこ)島民69人が台湾に漂着し、うち54人が現地住民に殺害されるという事件が発生した(宮古島民遭難事件)。この事件をきっかけに政府は琉球問題の決着本腰を入れ、翌72年に琉球使節を来朝させ、琉球国王尚泰(しょうたい)を琉球藩王として華族(侯爵)に列し、琉球王国を琉球藩とする旨宣告した。そして琉球藩の管轄を外務省に移した。74年、政府は琉球藩民に対する加害への報復措置として台湾へ出兵、事変処理にあたって中国との間で取り交わした北京(ペキン)議定書のなかで被害者を「日本国属民」と認めさせ、賠償金を払わせることに成功した。これら一連の措置は、琉球が日本の領土であり、その人民が日本国民であることを内外に印象づけるためにとられたもので、琉球藩設置はきたるべき廃藩置県への布石として位置づけられていた。

[高良倉吉]

経過

1875年5月、政府は松田道之(みちゆき)を琉球処分官に任じ琉球問題の決着に着手する。同年7月訪琉した松田は、琉球側に対し、〔1〕清国への進貢使派遣および清国から冊封を受けることの禁止、〔2〕清国年号をやめ明治年号を使用すること、〔3〕明治政府への謝恩使として藩王尚泰自ら上京すること、などの要求を突きつけた。これに対し琉球側がその受諾を拒んだため、松田はいったん帰京、79年1月にふたたび訪れて同趣旨の要求を繰り返した。しかし琉球もまた同様に拒否の態度を崩さなかったため、同年3月、三度琉球を訪れた松田は、今度は軍隊300余、警官160余を率いて武力を背景に要求を提示するとともに、琉球藩を廃し沖縄県を設置する旨3月11日付けで布達し、同31日限りで王宮首里(しゅり)城を明け渡すよう激しく迫った。その結果、尚泰が臣下とともに城を出たため、琉球王国は崩壊し廃藩置県が達成されることになった。

 しかし、明治政府の強行的な処分に反対する空気は根強く、不服従運動をはじめ、清国へひそかに渡航して清国当局に嘆願する動き(脱清運動)が出るなど不穏な情勢となった。清国も琉球に対する宗主権を保持するとして外交的手段を用いて日本に厳重な抗議を行ったため、琉球問題は一気に日清両国の重大事件に発展することとなった。清国当局者の一部には武力発動も辞さないとする強硬派もいたが、李鴻章(りこうしょう)は来訪中のアメリカ前大統領グラントに琉球問題の調停を依頼した。1879年7月、清国から来日したグラントは明治政府に対して問題の平和的解決を勧告し、これを受けて政府は清国との間に外交的折衝を開始、翌80年10月、分島・増約案を提示した。その内容は大きく分けて二つの点からなっている。一つは琉球領内のうち宮古・八重山(やえやま)を清国に割譲すること、一つは、そのかわりに日清修好条規(1871年締結)にうたわれている日本の最恵国待遇規定をさらに有利に追加する、というものであった。日清両国はこの線に沿って琉球問題の妥結をみたが、清国がやがて内容を不利と判断して調印を拒んだため、この案は土壇場で実現されなかった(分島問題)。その後も日清間における琉球問題はくすぶり続け、また、沖縄県内においても一部に不穏な空気が流れ続けたが、最終的には日清戦争(1894~95)で日本が勝利することにより終止符が打たれた。

[高良倉吉]

評価

前述したような背景・経過をもつ琉球処分とはいったいなんだったのか、第二次世界大戦前から多くの研究者がさまざまな評価を行っている。大づかみに整理すると、〔1〕日本における近代国家形成時の民族統一の一環として積極的に評価する見解、〔2〕民族統一の一環である点は疑いないが、統一の過程に現れた強権的・国家的側面を同時に重視すべきだとする見解、〔3〕民族統一というよりも侵略的な併合とみるべきではないかとする見解、に大別される。しかし〔1〕~〔3〕の見解内部でも論者によりニュアンスが異なるなど、評価はかならずしも一致していない。そのことは、民族統一であったはずの沖縄の廃藩置県の直後に、分島問題が惹起(じゃっき)した点に象徴されるように、もっぱら明治政府の都合により処分が推進され、琉球住民の意向を十分にくみ取ることなく、他律的な形で実施されたことが、評価をむずかしくさせているからである。琉球処分のこうした性格に絡んで、第二次世界大戦後、とくに1972年(昭和47)前後の沖縄返還問題をめぐる日本国政府の沖縄施策を批判する際に、「第二の琉球処分」という用語も登場したほどである。

 琉球処分が琉球王国を崩壊させ、47番目の県を日本につくったのは紛れもない事実である。そしてまた、この事件以後、琉球住民が沖縄県民として日本社会の一員となったことも事実である。このことは、琉球処分が多くの問題を含みつつも歴史的には民族統一の一環としての意義を帯びたものだったことを教えてくれる。同時に、近代日本の民族統一過程は琉球処分にみるような問題をも包含しつつ展開したことを認知する必要があることも教えている。

[高良倉吉]

『金城正篤著『琉球処分論』(1978・沖縄タイムス社)』『我部政男著『明治国家と沖縄』(1979・三一書房)』『安良城盛昭著『新・沖縄史論』(1980・沖縄タイムス社)』『比屋根照夫著『自由民権思想と沖縄』(1983・研文出版)』

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百科事典マイペディア 「琉球処分」の意味・わかりやすい解説

琉球処分【りゅうきゅうしょぶん】

明治政府が琉球王国を日本近代国家に組み入れた政治過程。1872年の琉球藩設置から1879年の廃藩置県までの一連の施策のことで,単なる廃藩置県ではなく,明治政府自身が〈処分〉といっているように,一方的に強権をもって断行したものであった。1874年,明治政府は,宮古島民が台湾住民に殺害された事件を利用して台湾に派兵(台湾出兵),琉球が日本の版図(はんと)にあることを(しん)国に認めさせた。そして翌年から本格的に琉球処分に着手。処分官松田道之が首里(しゅり)王府に提示した処分内容は,1.清国への朝貢および清国皇帝からの冊封(さくほう)の禁止,2.中国年号の使用禁止,3.他府県に準じた制度の改革,4.軍隊の駐留などである。しかし琉球側ではこれを拒否,旧態保持の嘆願を繰り返した。1879年松田は軍隊と警察を率いて処分を強行,沖縄県設置を通告し,首里城の明け渡しを命じた。威圧に屈して国王尚泰(しょうたい)は城を明け渡し,琉球王国は滅亡。処分をめぐって日・清間で確執が生じ,1880年日本は宮古・八重山を清国に分割するかわりに,日清修好条規を改正して中国内で欧米並みの通商権を得ようとする案を提示。交渉は成立したが,清国が調印を回避したまま棚上げとなり,日清戦争で琉球諸島全域の日本帰属が確定した。以後,諸制度の改革や衆議院選挙の実施などは大幅に遅れたものの,徴兵制や日本への同化教育は矢継ぎ早に進められた。
→関連項目アイヌ日本琉球琉球語

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改訂新版 世界大百科事典 「琉球処分」の意味・わかりやすい解説

琉球処分 (りゅうきゅうしょぶん)

沖縄の廃藩置県のこと。明治政府は王国体制のまま存続しつづける琉球の処遇について画策し,1872年(明治5)9月,琉球王国をひとまず〈琉球藩〉とし外務省の管轄とした。つづいて〈琉球藩〉を廃して〈沖縄県〉を設置しようとしたが,琉球側の執拗な抵抗と琉球に対して宗主権を主張する中国(清朝)の強い抗議にあい,容易に意図を実現することができなかった。74年,明治政府は先に台湾に漂着して殺害された琉球人に対する報復措置を名目に台湾出兵を行い,琉球が自国の版図であることを中国側に示した。翌年,政府は松田道之を〈琉球処分官〉に任じ琉球側の説得工作に乗り出したが,琉球では処分に反対する勢力が大勢を占め成功しなかった。79年3月27日,松田は300名の兵士,160名余の警官を率いて〈琉球藩〉を廃し〈沖縄県〉を設置する旨を琉球側に布告し,3月31日限りで王宮首里城の明渡しを命じた。この威圧の前に琉球側はなすすべがなく,国王尚泰(しようたい)はやむなく首里城を明け渡した。ここに450年に及ぶ琉球王国はその歴史を閉じたのである。

 だが,処分になおも反対する勢力はあとを絶たず,明治政府への不服従運動も起こり,中にはひそかに脱出して中国に渡り,中国政府を動かして王国の再興を図ろうとする者が続出した(脱清運動)。一方中国も,武力行使も辞さないという態度をちらつかせながら処分の撤回を明治政府に求めたので,政府はやむなく外交折衝を通じて中国との間に妥協点を見いだすことになった。琉球を二分し,宮古,八重山の両諸島を中国に与えるかわりに,その代償として中国内で欧米なみの通商権を得ようとする案(分島・増約案)が翌80年に提示され,両国間でひとまず合意に達した。だが中国側が自国に不利とみて最終的に批准を回避したため流産となった(分島問題)。その後も日中間で琉球問題はなお懸案事項としてくすぶりつづけたが,その一方で明治政府の沖縄県政は着々とその実をあげつつあり,また処分反対勢力もしだいに少数派となっていった。琉球問題は,最終的に94-95年の日清戦争で日本が勝利することにより終止符が打たれた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「琉球処分」の意味・わかりやすい解説

琉球処分
りゅうきゅうしょぶん

明治政府のもとでなされた沖縄に対する強行的な廃藩置県。政府は,明治5 (1872) 年に琉球国を廃して琉球藩とし,中央政府の管轄とした。 1875年には内務官僚松田道之を処分官として琉球に派遣し,中国との関係を廃絶することを要求するなど,政府の処分の方針を伝えた。政府のこの措置に対しては,地元の士族層を中心とする反対運動があったが,政府は軍隊と警官を差向けてそれを押え,79年3月,琉球藩を廃し,沖縄県を設置する旨通告した。旧国王は東京移住を命じられ,ここに琉球王国は約 500年にわたる歴史を閉じて,日本の一県として措定された。 (→琉球 )  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「琉球処分」の解説

琉球処分
りゅうきゅうしょぶん

明治政府による琉球国の日本国への併合に至る一連の措置をいう。処分の経過は三つの段階に区分される。1872~74年(明治5~7)の第1段階では,琉球王国を琉球藩に,国王を藩王に改称し,外務省の管轄下におき,日本軍の台湾出兵を契機に外務省から内務省へ移管。75~79年の第2段階では,冊封進貢関係廃止,明治年号の使用などを命じ,裁判権の接収を強行。79年3月~81年3月の第3段階では,廃藩置県を宣言して併合を完了したが,琉球および清国側の抵抗にあい,前米国大統領グラントの調停を契機に琉球分割条約を締結するものの,琉球人の抵抗などにより廃案となり,以後併合の既成事実を積み重ねる。

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世界大百科事典(旧版)内の琉球処分の言及

【松田道之】より

…鳥取藩士の家に生まれる。1871年(明治4)京都府大参事から大津県令に累進,75年3月内務卿大久保利通により内務大丞に抜擢され琉球処分を担当,来琉すること3回。第1回は同年7月10日から9月10日までの2ヵ月間で,琉球藩首脳に清国への進貢停止等の令達を伝え,令達の受諾をめぐって談判を繰り返したが,琉球藩首脳は執拗に抵抗,松田の説得は失敗に終わる。…

【琉球】より

…また,琉球との年来の関係を理由に中国(清朝)も激しく抗議したため,政府の対琉球策は暗礁に乗り上げた。1879年春,政府は兵隊,警察官を動員して武力を背景に琉球王国の廃止と沖縄県の設置を宣言した(琉球処分)。琉球側,中国側ともに激しく抗議したが,これにより王国は滅び,琉球は日本の〈沖縄県〉となった。…

※「琉球処分」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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