漢籍に見える①が原義。②の意は、はじめ「環象」あるいは「境遇」という語で表わしていた。「環境」が一般化したのは大正期。
ある物(者)を取り巻く周囲の事物や状態をその物の環境といい、その物のことを主体という。「あなたは私の環境の一部であり、私はあなたの環境の一部である」というように、厳密にいえば環境の具体的な内容は個々の主体ごとに異なる。したがって、環境を問題にするときには、何を主体としているかを明確にすることが不可分のこととして要求される。
主体としては、あらゆる物が取り上げられる。生物について環境という場合には、普通、個体を主体としているが、個体の集団、すなわち家族、群れ、群集など、あるいは体内の細胞などについても環境が取り扱われることが多い。また、たとえば杉林を構成する個々の杉のように、近接して存在する同類の物の間では、それらの環境は一般に非常に類似しており、便宜的には同じ環境にあるとみて、ことさらに特定の個体を主体に指定することなく、それらに共通した環境が概括的に意味されることが多い。
環境を構成するのはあらゆる種類の物質や物体であるが、それらの様態も環境の内容とされる。すなわち、生物にとっての重要な環境要因としては、水、酸素、栄養塩類、餌(えさ)生物、敵などとともに、光、温度、流れ、圧力などがあげられる。液体の水があるのと固体の氷があるのとは同じではないし、水と塩類が別々にあるのと塩水としてあるのも同じではない。水質、底質といった要因は、どのような物質を含有しているかということとともに、濃度や粒子の大きさ、その空間的、時間的な変化といった状態をも意味する複合的なものである。
[原田英司]
ある主体にとっての環境の範域は、理屈のうえでは限定できるものではなく、無限に広がるものとみなされる。眺望のように遠くの物体が直接重要な内容となる場合もあるし、騒音や臭気のように発生源が離れていても問題となるものもある。人間社会においては、情報を媒介にして、他国のできごとが直接的な意味をもつことも少なくない。「風が吹けば桶(おけ)屋がもうかる」式の影響の波及や関係の伝播(でんぱ)性を考えれば、環境の範域を限定することはますます不可能となる。他方、主体が影響を受けるのは、いずれにしても環境の作用がなんらかの意味で主体に直接及んだときである。つねに無限の広がりをもつ環境を取り扱うというのは現実的ではない。そこで、主体が直接交渉をもつとみなされる適当に近い範域、すなわち近接環境を環境としてまず第一に取り上げるのが普通である。環境のなかに主体に対して直接的な重要性をもつ部分や要因を認めて、これを有効環境とよぶこともある。このような有効環境、そしてそれのもつ意味は、生物にあっては種により個体により異なるのが普通である。人間の場合には、価値観の相違による環境の評価の違いも生じる。このようにして主体によって受け取られた環境像は主体的環境といわれ、いわば生物はそれぞれの主体的環境のなかにあるともいわれる。ただし、有効環境や主体的環境が主体にとっては重要であるとしても、それらの内容は初めから明らかになっているものではなく、客観的な存在としての環境と主体との関係を分析してのちに知られるものにほかならない。主体に対する関与を想定して取り出した環境部分は操作的環境といわれ、測定・分析などの具体的な取扱いの当面の対象となっているものである。
環境は、家庭環境、教育環境、水環境、生物(的)環境というように、限定した範域や側面で把握されることも多い。外囲のすべてを環境とすることを素朴な無限定環境論として排し、外界のなかで主体に関与し、主体にとって必要とされる部分を環境と定義する立場もある。また、生物体の内部はその生存に関与して特定の状態に保たれており(ホメオスタシス)、これを外環境(外部環境)に対して内環境(内部環境)とみる考えもある。環境という用語が使われるとき、それが実際に何をさしているかはあいまいなことも少なくない。
[原田英司]
ところで、人間の諸活動の拡大が地球全体にわたって環境に変化を及ぼすようになり、環境の範域に関連して、「地球環境」という概念が注目されるようになった。地球環境とは、一般的には人間にとっての生活環境すなわち人間環境(環境のなかの人間部分を取り出してさすという意味ではない)を、全地球的広がりでとらえてさすものである。ほかの生物についていわれることもあるが、いずれにしても環境問題は全地球的な規模で把握・考慮されなければならない面があるという認識をもとにしている。たとえば、海面上昇や広範な森林変化など全地球的規模の自然変化をもたらすと予測される地球温暖化は、地球上の各地で大気中へ放出される二酸化炭素に一因を負っている。こうした地球環境の改変を防ぐには、地球上の各地それぞれで原因を取り除くことが必要不可欠となる。成因としての事象の局地性とその影響による結果としての事象の広域性、局地的なできごとが全地球的な問題に転じること(グローバリゼーション)の認識が強調されているのである。
地球環境や各地の自然環境に多大な影響を及ぼす人間の活動に、人間自身が目を向け是正対策を講じなければならない、という認識も一般的となっており、環境保護をうたった環境と開発に関する国連会議における「リオ・デ・ジャネイロ宣言」(1992)などは、その表れである。日本でも、1993年(平成5)に「環境基本法」が制定され、それを受けて1997年には「環境影響評価法」も成立し、いわゆる環境アセスメントが実施されるようになった。また、環境NGO、環境NPOとよばれる民間諸団体の活動や自然保護運動も力を発揮している。とはいえ、経済至上主義的な志向との隔たりは大きく、なお多くの課題が残されている。
[原田英司]
環境要因の具体的な状態や程度、たとえば土壌の含水量がどれだけであるかとか土壌の粒度組成がどのようであるか、温度が何度であるか、また、どんな餌がどれくらいあるかといったことは、環境条件といわれる。生物にとって好適な環境条件は、それぞれの環境要因について、種によって異なり、成長・発育段階に伴って変化するのが普通である。加えて個体差もある。日当りのよい海岸の砂浜に生育するハマゴウのような植物もあれば、深山の森林の湿った岩石上に群生するシダ類もあるし、成長すれば樹冠が直接日光を浴びるようになるシイなどの樹木も、芽生えや幼樹はむしろ樹下の日陰で下生えとしてよく生育する。
環境条件は場所によって異なり、時々刻々変化する。空気中の酸素濃度や外洋海水の塩分濃度などのように差異の微小なものもあるが、酸素濃度でも高度に伴う変化や森林中での日変化は明瞭(めいりょう)である。太陽光の照射量や気温は、大幅にかつ規則正しく日周的・年周的(季節的)に変化する。海岸の潮間帯は潮汐(ちょうせき)によって規則的に水没・干出(かんしゅつ)が繰り返される場所であるが、湖岸や河岸ではそれはまったく不定期におこる。水没・干出に伴って、水分だけでなく温度・明るさ・酸素濃度なども変化する。生物が現実に生活している場所の環境条件は、深海とか地底洞穴などのような場所を除けば、ある特定の様相をもって変動しているのが一般であり、生物はそうした変動にも適応して生活しているものである。ことに、規則的・周期的な変化は生理的活動にも組み込まれていて、開花に対して日照時間の変化が刺激となる日長効果のように、生物の生活に重要な意味をもつようになっている場合も少なくない。生物の生活にとっての好適な環境とは、このような環境条件の変化をも含めたものとしてとらえられるものである。
変化といっても、いわゆる大気汚染や水質汚濁にみられるような予期せざる物質などの予期せざる変化には、適応がみられないのが普通である。生物が生活し、耐えて生存できる環境条件の変化の範域は、これまた種により、発育段階により、環境要因によって異なるものである。多くの要因に対して耐忍の幅が広ければ広く分布しうることになるが、他方、ただ一つの要因に対してでもその幅が狭ければ、それによって生活が制限されることにもなる。幼虫の餌としてカンアオイを必要とするギフチョウは、カンアオイが生育していなければ繁殖できない、といった例は数多くある。生物がそれぞれ進化の過程で形成・獲得してきた特性として、理解されるものである。
[原田英司]
環境条件は生物が生活する場の枠組みをつくっているが、生物が生活することによって不可避的になんらかの変更を受けるものでもある。樹木が生育すると、その下の地面は日陰になり、落葉が腐食して湿った有機物に富む土壌が形成される。増えたアサリを目当てに人々が押しかけて砂浜を掘り返せば、アサリだけでなく他の生物の生息を害することもあるし、生息環境である底質を改変することにもなる。こうした生物の働きを包含しつつ、卓越した特有の環境条件は生物に独特の生活様式や群集構造を発達させている。海洋や湖沼では浮遊生活をする生物が発展し、それを水から濾(こ)しとって食物とする摂食様式や、幼生が浮遊生活をして分散する繁殖様式が多くの動物で発達している。外洋や深い湖の中では大形の植物は生育できず、表層で浮遊して繁殖する小形の藻類が光合成による有機物生産の担い手であるので、大形動物は直接それを食べることができず、食物連鎖が長くなる。生物と環境との関係は、このようにきわめて多面的であり、それらが生態系を形づくっているのである。
[原田英司]
環境は、生活体(主体)が活動するすべての空間を意味する。生活圏と言い表すこともできる。生活体を中心としてみると、環境は生活体の構造や機能の制約を受け、特有な内容をもっている。生活体と統一的外界としての環境の機能的関連を考察したのは、ゲシュタルト心理学であった。ドイツの心理学者K・コフカは、環境を地理的環境と行動的環境、つまり主体の有無にかかわらず現実に存在するとおりの環境と、その人が経験するところの環境とに区別した。地理的環境は物理的環境ともいう。ドイツの心理学者K・レビンは、このコフカの二元論に満足せず、生活空間という考えを提示する。B=f(P・E)がそれで、Bは行動behaviour、Pはパーソナリティーpersonalityその他の個人的要因であり、Eはその個人に知覚された環境environmentを示す。fは関数であることを示す。要するに生活空間は、生活体と環境との相互依存関係から成り立っている。
一方、環境は、生活体に対立する存在ではなく、生活体の生命過程と深くかかわっている。今日、環境破壊の現象が大きな問題となっている。このような状況のなかから、社会学、生物学、医学はもとより、心理学、教育学においても環境に関する研究が多くなされるようになった。とりわけ注目されているのは、1960年代の後半からアメリカで盛んになった環境心理学的アプローチである。また、教育学者で環境の問題にまったく触れなかった者はほとんどいない。なかでも人間と環境との相互関係を教育学的視点から説明したドイツの心理学者ブーゼマンAdolf Busemann(1887―1968)の「環境教育学」はとくに有名である。
なお、第二次世界大戦後まもなく活動を始めた国際自然保護連合(IUCN)や国連教育科学文化機関(UNESCO)などによって強力に推進された「環境教育」は、地球規模での環境破壊の拡大を背景に、環境に対する理解や関心を教育のなかに位置づけたものである。日本での最初の環境教育は、1960年代の公害や自然破壊の問題に対するものであった。そして、2000年度一斉にスタートした教育課程へ新たに導入された「総合的な学習」のなかに、環境教育が取り上げられるようになった。テーマとしては、食、水、ごみ、川、海、動植物、まち(地域)などの問題がよくみられる。
[西根和雄]
人間を取り囲むものとしては、物理的、地理的、自然的なもの、さらに社会的、文化的なものがある。これらを人間の環境といっている。したがって人間の環境として考えられるものは、かならずしも目に見えるものだけとは限らない。社会のルールなども含まれてくる。また、ある個人は主体であると同時に、他の人にとっては環境となりうる。人間の行動を考えるときに、環境とのかかわり合いを無視するわけにはいかない。行動は、環境へ順応あるいは適応していくという重要な機能をもっているといっていい。
[相馬一郎]
環境と行動との対応関係として、いちおう次の三つを考えることができる。それは、(1)探索と操作、(2)接近と回避、(3)環境圧力と欲求、である。
(1)探索と操作 探索行動は対象の新奇性により生じる。これは、その環境における適切な行動をとるための情報収集行動といってもよいであろう。この行動は視線を動かすことだけによってなされることも多く、日常的に行われている行動といってよいであろう。周囲の人のようすをうかがうといったことも一種の探索行動といえよう。操作は、環境に人間が働きかける行動である。それによって環境が変化すると、変化した環境が新たな刺激となり、新しい行動が誘発される。
(2)接近と回避 接近と回避は、快・不快感情に関連する。快感情が生じる対象には近づき、不快感情が生じる対象からは遠ざかろうとする。これには「空間をとる」(スペーシングspacing)ということも含まれる。アメリカの文化人類学者E・T・ホールは、人が他の人に対してとる距離と、個体間の相互作用の関係を検討した結果、人は適当な対人距離において、適当な対人行動をとることをみいだしている。日常的な対人行動の場合、密接距離の範囲まで近づくことが許容されるのはごくまれであり、この空間が個人において最低限確保されている。ところが過密状態とか、つねにこんでいる状況とかでは、この空間の確保がむずかしくなってしまう。満員電車などがその極端な例である。この場合、強制的に密着する状況がつくりだされるわけで、不快感が増大することは十分予想される。したがって日常の対人行動は行われにくくなる。このスペーシングは、プライバシーなどとも関連するといわれている。
(3)環境圧力と欲求 環境圧力とは、環境から個人にかかる力であり、欲求とは人の行動にまとまりと方向を与える傾向である。この圧力と欲求の対応が、認知行動を成立させる。たとえば、学校をどう認知するかということが、生徒の行動を規定し、生徒の逸脱行動にもこれが関連していると考えられる。
[相馬一郎]
人間の行動は、環境の認知・評価と深くかかわっている。このため特定の環境における人間行動を対象とした研究が多くなされるようになった。
(1)環境移行時の行動 新しい環境における人間の行動分析が中心課題であり、人間が生まれてから死ぬまでの「人生移行」とも関連している。
(2)学校環境と児童・生徒の行動 この場合、学校の物理的構造やカリキュラム、構成人員などと行動との関連が中心課題となる。
(3)建築空間(建築環境)と人間行動 この分野では、空間の構造と行動、快適性との関係などが検討されている。
(4)都市空間と人間行動 これはおもに都市のイメージの問題を扱うが、環境のなかで目的地を目ざす移動行動(経路探索way finding)についての研究も進められている。
(5)災害時の人間行動 火災や地震といった災害時の行動についての研究である。異常環境下での人間行動は、方向判断の不明確さ、デマ、同調行動が生じやすいといわれ、防災という点からみても重要な課題であるといえる。しかし各種の条件が複雑に絡むため、その成果があらゆる場合に適用できるかというと、必ずしもそうはいえない点が多くある。
これらのいずれにも関連して、イメージ、認知地図cognitive map(個人が環境の空間的配置に関してもつ内的な表象)、距離判断などの検討がなされているが、そこには情報や体験の違いといったものとの関連も含まれている。
[相馬一郎]
ところで現代は情報化社会であるといわれ、情報環境構築のための整備は急速に進んでいる。そのため、テレビなどのマス・メディアが伝える各種の情報が洪水のように流れ込み、現実環境を象徴化した擬似環境(情報環境)を形成している。また、インターネットなど個人が発信する情報も多い。このような情報環境のもとでは、各個人がいかに情報を取捨選択するかがまず第一の問題であろう。また、災害時には情報をどのように流すかが重要な問題であり、誤った情報が流されることにより混乱行動が生ずることがある。擬似環境は、仮想の訓練などある程度の役割は認められるが、実体験(現実環境)から得られる感激性や親和性といったものが欠落する可能性があり、このことは知識偏重をさらに促進することにもつながる。情報環境の問題を視野に含めつつ、人間性の回復ということにどう対処していくかが今後の大きな課題となろう。人間と環境のかかわり合いは、視聴覚のみならずさまざまな感覚をも用いている。その意味でも、視聴覚に頼りすぎる情報環境のなかでは、実体験の重要さを認識すべきであろう。
[相馬一郎]
『田宮信雄・野田春彦他編『生命と科学7 生命と環境』(1967・共立出版)』▽『川那部浩哉著『生物と環境』(1978・人文書院)』▽『沼田真編『生態学読本』(1980・東洋経済新報社)』▽『荒木峻・沼田真・和田攻編『環境科学辞典』(1985・東京化学同人)』▽『E・ゴールドスミス編、不破敬一郎・小野幹雄監訳『地球環境用語辞典』(1990・東京書籍)』▽『石弘之著『地球環境報告2』(岩波新書)』▽『相馬一郎・佐古順彦著『環境心理学』(1976・福村出版)』▽『R・M・ダウンズ、D・ステア編、吉武泰水監訳『環境の空間的イメージ』(1976・鹿島出版会)』▽『望月衛・大山正編『環境心理学』(1979・朝倉書店)』▽『長倉康彦・高橋均著『教育学大全集15 学校環境論』(1982・第一法規出版)』▽『新堀通也・津金沢聡広編『教育学研修講座第2巻 教育の環境と病理』(1984・第一法規出版)』▽『藤原英司・平田久・小原秀雄他著『環境教育学のすすめ』(1987・東海大学出版会)』▽『山本多喜司、S・ワップナー編著『人生移行の発達心理学』(1992・北大路書房)』▽『奥田真丈・河野重男監修、安彦忠彦編『現代学校教育大事典2』(1993・ぎょうせい)』▽『西本憲弘・佐古順彦編『伊奈学園――新しい高校モデルの創造と評価』(1993・第一法規出版)』▽『高橋鷹志・長沢泰・西出和彦編『環境と空間』(1997・朝倉書店)』
一般に,生物や人間を取り巻く外囲(環界)のうち,主体の生存と行動に関係があると考えられる諸要素・諸条件の全体を環境という。
〈環境〉という語は,遅くとも中国の元代の文献(《元史》〈余闕伝〉)にみられるが,これは四周を囲われた境域という意味にすぎない。西欧語の訳語として広く使用されるようになったのは,近年のことである。環境という言葉こそ使わなかったが,ヒッポクラテスはすでに紀元前に〈空気,水,場所について〉という論文において,病気の発生に及ぼす環境の影響について詳しく論じている。
現代的な意味での環境という語の使用はA.コントのミリューmilieuに始まる。コントはそれを〈すべての有機体の生存に必要な外部条件の全体〉と定義した。生物とミリューとの問題を初めて本格的に論じたのは,《動物哲学》(1809)を書いたJ.B.deラマルクであった。その後生態学的な研究の進展につれて,主体と環境の関係は一方的に受身なものではなく,生物の営みによって環境そのものが改変されていくという,きわめて密接な相互依存性をもつものであることが明らかになってきた。さらには,生物主体が〈適応〉過程を通じて環境の中で最適な条件を選ぶという能動性を強調する立場も登場している。
クロード・ベルナールは外界の環境が激しく変化しても生物が生きていけるのはその〈内部環境milieu interieur〉(この場合の主体は細胞や組織)を一定に保つ能力があるためであるということを指摘し,この能力をホメオスタシスと呼んだ。今日この概念は外部環境にも逆輸入され,生態系のホメオスタシスといった使い方もされるようになっている。
〈環境〉は現代社会論におけるキーワードの一つになり,環境関係の語彙は増えつづけ,その専門辞典も刊行されるほどである。なぜ,今日〈環境〉が問題になるかといえば,人類が利己的な技術を過度に行使することにより,生存基盤である自然系や生物生態系を破壊し,環境を悪化させる可能性をもつにいたったからである。人間は環境との対応段階からみると,所与の自然環境に順応する自然人,環境を加工して文化的環境に変える技術人,複雑な環境を制御し,管理する環境人へと進化してきたといわれる。環境人としての現代人の責務は,人間にとって快適で知的創造性に富んだ環境を育成するための環境アセスメント,環境管理,環境計画などを強力にすすめることである。そのためにはまず〈環境〉という用語について概念を整理しておく必要がある。
環境は次の四つの観点から分類できる。すなわち,(1)主体,(2)行動と機能,(3)場所あるいは地域,(4)構成要素である。
(1)主体ごとの環境 すべての生物は,それぞれ独自の環境を有する。すなわち生物は,その生活形態,機能,欲求,行動の仕方に即して,所与の〈環境基盤〉あるいは〈潜在的環境〉から必要とする要素・因子の複合を選び出し,固有の流儀で独自の環境を組織する。したがって同一の環境基盤においても,共存する各主体の環境は相互に異なる。たとえば同じ部屋にいる大人と子ども,犬や猫,カとかハエなどは,それぞれ,生き方も関心も,知覚能力なども異なるので,それぞれの環境内容にも違いが生じる。
このような主体別環境の出現とその研究意義とを初めて例証した学者は,J.J.ユクスキュルであった。彼は主体的環境をUmweltと呼んで所有の環境基盤Umgebungから区別し,〈環境研究の最初の課題は,ある動物を取り巻く諸特徴から,その動物が知覚している環境の特徴を見つけだして,その動物独自の固有環境を構成することである〉と述べて,主体別環境研究の基礎を示した。今西錦司も〈生物の認識しうる環境のみが,その生物にとっての環境であり,それがまたその生物にとっての世界の内容でもある〉と指摘したが,これはユクスキュルの考え方と軌を一にしている。
(2)行動・機能別の環境 主体別環境について,次に問題になるのは主体が知覚し認知している部分(認知環境,知覚環境)と,知覚の有無にかかわらず実際に作用している環境(実質環境)との区別である。主体は,環境を知覚し,判断し,ある欲望に促されて行動を起こすが,その行動に対応する環境は行動環境behavioral environmentと呼ばれる。認知環境や行動環境について論じる際に注意すべきことは,それらが主体側の内的イメージを意味する認知環境像,行動環境像であるのか,それともそれらに対応する外的存在をさす認知環境,行動環境であるのか,はっきりさせることである。この環境像と実質環境とのくいちがいに着目して,その研究意義を指摘したのが心理学者のK.コフカである。彼はスイスに伝わる有名な中世伝承を引用して,彼のいわゆる行動環境(行動環境像)と地理的環境(実質的行動環境)との間のくいちがいが生じる問題の重要性について注意を喚起した。すなわち,〈ある冬の夕方,吹雪の中を騎馬の男がコンスタンツ(ボーデン)湖畔の宿に着いた。主人はいぶかり,あなたはいったいどちらから来たのかと尋ねた。男が指さす方向を見た主人は仰天して,“よくまあ湖を渡って来たものだ”というやいなや,男は驚きのあまりがっくりと膝から崩れるように死んでしまった〉というのである。この場合,男の念頭にあった行動環境像(コフカの行動環境)は,堅い大地であったが,実際の行動環境(コフカの地理的環境)は,氷の張った危険な大きい湖であった。
次に行動環境は,一時的な任意の行動環境と,一定の場所において継続的・組織的に営まれる機能に必要な恒常的環境とが区別される。後者の例としては,各職場の労働環境,教育環境,生活環境,各種の生産環境,レクリエーション環境などがあげられる。
(3)場所と地域別の環境 人間の環境はまた空間的に,身近の狭い環境から,地球環境,宇宙環境に至るまで,さまざまな地域環境が区別される。すなわち,家庭環境,近隣環境,郷土環境,自治体環境,農村環境,都市環境,大都市環境,広域環境,国土環境,国際環境などである。この場合,たとえば都市環境というとき,その都市社会を取り巻く広域環境であるのか,都市住民の生活や行動の場として,地域環境としての都市環境であるのか,この点を区別する必要がある。
(4)構成要素別の環境 低次の文化段階における人類を取り巻く環境は,その大部分が自然環境であった。しかし文化が発達するにつれて,自然的基盤の上に改変された二次的自然(自然的環境),さらには人工物が累積されていき,しだいに複雑多様な文化環境あるいは人工的環境が形成される。
このような文化環境は,精神環境(狭義の文化環境),社会環境,経済環境,政治環境などに分けられる。しかし,現実にはそれぞれ全体環境,あるいは環境複合の一部であって,互いに密接に絡み合っているから,むしろそれぞれは環境層と呼ばれるべきである。これらの環境層はさらに細分される。たとえば,精神環境は,思想,世論,雰囲気,教育,宗教,芸術,マス・コミ,レクリエーションなどの文化活動とそれらに必要な機関,組織,施設,行事などである。そして,精神・社会・経済・政治上の各活動においては,各機能・機関・施設・組織・制度・行事などは互いに他の環境因子となる。
執筆者:西川 治
時間・空間のようなカテゴリー,あるいは因果連関といった観念,これらシンボル体系を通して,ひとは自然環境を解釈し,秩序づけ,それに意味を与えてきた。与えられた自然に従うというより,むしろ自分がつくりだした表象的世界に自然の方を順応させようと努力してきたのである。したがって人間の認知環境ならびに行動環境は,実は彼自身が外界自然に対して下した定義づけの所産であり,その〈生活空間〉は文字通り文化的に構成されたものである。社会学者はこの経緯を世界構築world-buildingのプロセスと呼んでいるが,その構成された世界がそれでいてなお外界環境としての一定の客観性objectivityならびに現実性realityを確保しているのは,世界構築の営みが集団的企てとして遂行され,かつひとたび出現した世界を皆で共有して支え合っているからにほかならない。こうして人間は,生物学的には与えられなかった生活上の確かな構造を,文化と社会によって初めてもつことになる。しかしそれが〈生ける自然〉との間にさしはさまれた,いわば創作的世界である限り,なお自然そのものがもつほどの確実性や安定性はもちあわせていない。
とりわけ現代のような情報化社会では,マス・メディアがふりまく環境イメージばかりが肥大し,ためにわれわれは真の環境real-environmentからいよいよ疎隔される危険性をもつ。D.J.ブーアスティンが,現代をとくに〈幻影の時代〉と呼んだ意味はこれである。もとより,ブーアスティンに先立って同じ趣旨の警告を発したひとは少なくない。たとえば社会・政治思想家リップマンW.Lippmann(1889-1974)は《世論》(1922)のなかで,人間を取り巻く現実の環境と,人間が頭の中に描いた環境の映像pictureとの違いを指摘し,前者を〈現実環境〉,後者を〈擬似環境pseudo-environment〉と名づけた上で,擬似環境の肥大によるわれわれの不適応に深い憂慮を示した。清水幾太郎もまた,〈コピーとして提供される環境の拡大〉をいち早く問題にした一人である。現実に対する幻影,本ものに似たまがいもの,あるいはオリジナルに対するコピー,いずれにせよ〈表象化された物の氾濫する〉現代は,真の環境からの不自然なずれになおのこと警戒しなければいけない時代なのである。むろん,人間は自己が頭の中に思い描いた映像によってしか行動できないから,彼が現実の環境に反応するつもりでした行動も,しばしば彼自身が〈現実環境〉だと思いこんだ〈擬似環境〉に対する反応になってしまう。けれども,その行動の結果は擬似環境に対してだけ及ぶわけではない。いうまでもなく,彼の行動が生じた現実そのものに対しても結果は及ぶのである。巨人に向かって突き進んだはずのドン・キホーテが,実は風車の羽根に槍を突き刺していた道理で,現実からの復讐が当然あるものと予想されよう。だが,先に挙げたような人たちは,そういった〈現実の復讐〉による歯止めが,むしろ効かなくなった時代として,現代を憂慮しているのである。
一例をとって,ブーアスティンのいう擬似イベントpseudo-eventから,パッケージ観光旅行を考えてみよう。ここでは,観光客が〈現実〉のパリを見て,あるいは本当のチロルを見て,がっかりしないようにいろいろなくふうがこらされている。パリではこのアングルで写真を撮るように指定され,インスブルックのホテルの庭ではアルペン・ホルンやチロリアン・ダンスの実演が行われる。おかげで観光客は〈現実の復讐〉を経験することもなく,夢に描いたパリ風のものに酔い,あるいはチロルらしさのなかに遊ぶこともできる。実は,わざわざ〈現地〉まで行って,古ぼけた自分自身と再会してきただけなのに……とブーアスティンは言う。だが,なんと言われようと,われわれはマス・メディアの提供するこの種〈擬似イベント〉に身をゆだね,現実からの苦い復讐経験を回避しようと身構えている。
確かに,自然界においては〈現実の復讐〉に基づく巧まざる制御(フィードバック)機構が作動している。人間も,かつてはこの自然界の機構のもとに従属していた。彼らが,われわれよりも,はるかに過酷な自然に直面していたのは事実であろう。だが,われわれのしていることも,あるいは〈現実の復讐〉をただ先送りしているだけのことかも知れない。〈擬似環境〉の無限増殖によって,いよいよ自然生態系から疎隔しつつある悪循環のゆえに,かつてのどの人類も経験しなかったほど大規模な〈現実の復讐〉にいつ遭遇するかも知れない。
→情報化社会
執筆者:大村 英昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 ASCII.jpデジタル用語辞典ASCII.jpデジタル用語辞典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 (株)朝日新聞出版発行「パソコンで困ったときに開く本」パソコンで困ったときに開く本について 情報
… 彼の生理学に対する基本的な立場は人間中心的な見方への批判であった。それは一方で,擬人主義を排して客観的に動物の行動を記述する道を開いたが,もう一方で,機械論的陥穽(かんせい)に陥っていた当時の生物学に画期的転回をもたらし,〈機能環Funktionskreise〉や〈環境世界Umwelt〉という重要な概念を生んだ。環境世界は知覚世界と作用世界からなるとされ,これらは機能環によって一体化されている。…
…アフォーダンスは物に備わる性質である,と同時に,物と動物との関係の仕方,つまり物に触れる動物の行動によってはじめてあらわれてくる性質でもある。つまりアフォーダンスとは環境の性質であり,かつ動物行動の性質でもある。アフォーダンスは環境と動物が一体な存在であることをあらわしている。…
… 現代の公害は次のように定義できよう。すなわち,公害とは,都市化,工業化に伴って大量の汚染物の発生や集積の不利益が予想される段階において,経済制度に規定されて,企業が利潤追求のため環境保全や安全の費用を節約し,また無計画にモータリゼーションや大量消費生活様式が普及し,国家(自治体を含む)が環境保全の政策を怠る結果として生ずる自然および生活環境の侵害であって,それによって人の健康障害または生活困難が生ずる社会的災害である。 公害の原因は気象などの自然条件,人口配置,あるいは安全の技術を含む生産力の水準によって変わってくるが,自然災害と違って,基本的には経済や社会のあり方から生まれる人為的なものであり,不可抗力の天災ではない。…
…また集団が採用している技術によって集団構造が規定されることが観察されている。集団の規模や技術ばかりでなく,集団をとりまく環境の性質が集団構造と深い関係をもっている。すなわち,確実で安定した環境の下では,集権的なコミュニケーションが重視される階層的な構造が有効であり,逆に,不確実で不安定な環境の下では,分権的でゆるやかに結合した構造が有効である,という事実が知られている。…
…また,かけ離れた地域間に,目だって類似した種の組合せの生物群が分布している現象も見いだされた。進化論が確立されるにつれて,これらの分布現象は現在の環境条件で決定づけられているだけでなく,地球の歴史をも反映しているものと主張された。東アジア地域の植物群と北アメリカ東岸地域の植物群との比較は,アメリカのA.グレーによって1859年に最初に報告され,東アジアと陸つづきのヨーロッパや,距離的には近い北アメリカ西部よりはずっと類似した植物群が存在していることが明らかにされた。…
…この土壌流亡を阻止し,農業の生産性を維持するには,土地の適切な利用,特に土地を被覆する植生の回復が必要である。 また,人口が異常に集中した都市域での気候の変化――気温の上昇と湿度の低下(乾燥)――は,生活環境として好ましくない現象である。このようなヒートアイランド現象も,土地被覆としての緑地の破壊によることが知られていて,都市域における適切な緑地の配置が生活環境の維持に大切なことになっている。…
※「環境」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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