日本大百科全書(ニッポニカ) 「生活世界」の意味・わかりやすい解説
生活世界
せいかつせかい
Lebenswelt ドイツ語
科学によって理念的に構成される以前に、われわれが身体的実践を行いつつ直観的なしかたで日常的に存在している世界のこと。エドムント・フッサールは、『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』において、ガリレイに始まるヨーロッパ近代科学が、われわれが自明なものとして経験している究極の明証性の地盤である「生活世界」を、記号や数式などの「理念の衣」によって隠蔽している、と批判した。フッサールが「ヨーロッパ諸科学の危機」と呼ぶのは、このような明証性の地盤が隠蔽され、その探求の道が閉ざされたために、科学が人間の生にとってどのような意味を持つのかという問いへの答えが失われた状況を指している。科学が扱う対象の世界は、生活世界を地盤として構成された特殊な世界にすぎない。フッサールは、彼の創始した現象学的手法を用いて、明証性の地盤としての生活世界のア・プリオリな構造を明らかにすることによって人間理性の復権を唱えたのである。
生活世界は、判断以前の受動的で根源的な信念の場として知覚的・直観的な環境であるだけではなく、主観が他者たちと共に生きている相互主観的なコミュニケーションの共同体でもあって、そのかぎりでは文化伝統の沈殿した歴史的な世界でもある。例えば幾何学のように理念的な対象を扱う学問も、相互主観的なコミュニケーションの生活世界を地盤として、歴史的な発生構造の中で登場してきたことになる。このように「生活世界」の概念は、ヨーロッパ的な理性の復権の要求を掲げながらも、ヨーロッパ近代科学への根本的な批判を含んでいた。
フッサール以降、「生活世界」の概念は、モーリス・メルロ・ポンティやアルフレッド・シュッツらによってさらに展開された。メルロ・ポンティは『知覚の現象学』で、前客観的な経験の世界としての知覚的な領野と身体的な実存の非人称的な領野の記述を自らの現象学の課題とした。「極端な主観主義と極端な客観主義」をともに退け、ゲシュタルト心理学などを批判的に援用したメルロ・ポンティの現象学はフッサールの生活世界論を引き継ぐものであった。またフッサールのもとで学んだシュッツは、「現象学的社会学」を構想する中で、日常的な社会行為の連関する世界として「生活世界」の社会的構造を問題とし、その後のエスノメソドロジーなどに影響を与えた。
[加國尚志]
『モーリス・メルロ=ポンティ著、竹内芳郎監訳『知覚の現象学』1・2(1967・みすず書房)』▽『アルフレッド・シュッツ著、佐藤嘉一訳『社会的世界の意味構成』(1988・木鐸社)』▽『エドムント・フッサール著、細谷恒夫・木田元訳『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(中公文庫)』