デジタル大辞泉
「生田検校」の意味・読み・例文・類語
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いくた‐けんぎょう【生田検校】
- 江戸中期の箏曲家。北島検校の門弟。箏曲生田流の創始者。明暦二~正徳五年(一六五六‐一七一五)
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生田検校
没年:正徳5.6.14(1715.7.14)
生年:明暦2(1656)
江戸前・中期の箏曲家,生田流箏曲の始祖。貞享2(1685)年以前に勾当となり,当時は京都高倉通八幡町下ルに住んだ。元禄9(1696)年12月17日(27日とも)検校となり,生田検校幾一を名乗る。宝永2(1705)年以前に七老。八橋検校門下の北島検校城春に箏曲を学ぶ。40歳で生田流を名乗り,角爪(先端が角張っている箏爪)の創始,半雲井調子・中空調子などの新しい調弦法の案出,三味線と箏との合奏を始めたなどの伝説があるが疑問。少なくともそれ以前から三味線・箏・一節切(尺八)による合奏が行われていたことを示す資料がある。箏組歌(箏伴奏の歌曲)「思川」「鑑の曲」「四季源氏」のほか,箏の器楽曲「五段の調」「砧」を作曲したと伝えられるが,その作曲者については異説も多い。その他,三味線の曲に器楽曲「十二段すががき」と歌曲「小笹」があるとされるので,三味線の演奏・作曲も行ったらしいが,その業績についてはよくわからない。流祖としては比較的作品が少ないといわざるを得ず,実際は,師の北島が八橋の創始した箏曲に改変を加え,新たな創作も行って一流をたてようと志したにもかかわらず間もなく没したので,その遺志を受け継いだにすぎないという伝説もある。その門下からさまざまな分流を生じたが,今日では,生田流という流名が,江戸で発生した山田流以外の箏曲の流儀の総称となるに至っている。没日には23日説もある。
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生田検校 (いくたけんぎょう)
生没年:1656-1715(明暦2-正徳5)
江戸時代の盲人音楽家。名は幾一(いくいち)。1696年(元禄9)今井検校序一を師として検校登官,1705年(宝永2),当時の職階で最高の七老となる。北島検校城春に箏曲を学び,米山検校つま一や倉橋検校しゅんせう一などに伝えたが,その伝承が後世生田流と称せられた。箏組歌《思川(おもいがわ)》,段物《五段》,三弦長歌《小笹》などを作曲し(思川,五段は異説あり),《砧(きぬた)》の箏,《十二段すががき》の三弦などを手付けした。大森検校うか一が2代を,秀島検校うか一が3代をそれぞれ襲名。
執筆者:平野 健次
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生田検校
いくたけんぎょう
(1656―1715)
箏曲(そうきょく)、平曲(へいきょく)を専門とする盲人音楽家。都名(いちな)は、いく(幾)一。1685年(貞享2)版『京羽二重(きょうはぶたえ)』によると、幾田勾当(こうとう)時代、京都高倉通八幡(はちまん)町下ルに居住していた。そして『三代関』に、1696年(元禄9)12月17日今井検校序一のもとで検校になったと記されている。さらに1705年(宝永2)版『京羽二重』では、当道職階最高位の七老の位に記されている。近世箏曲の祖八橋(やつはし)検校門下の北島検校城春(じょうしゅん)の弟子。北島は、改めた手法を生田1人に伝えて早く没したため、北島流というべきものを、後世、生田流と称したと『新八橋流伝授書』に記されている。作曲は箏組歌(ことくみうた)『思川(おもいがわ)』(北島説も)、『鑑(かがみ)の曲』など。
[平山けい子]
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生田検校 いくたけんぎょう
1656-1715 江戸時代前期-中期の箏曲(そうきょく)家。
明暦2年生まれ。京都の人。北島検校にまなんだとされる。40歳のとき生田流を創始。箏と地歌三弦曲との合奏をはじめたといわれるが,それは北島検校の創案とする説もある。正徳(しょうとく)5年6月14日死去。60歳。名は幾一(いくいち)。作曲に箏組唄(ことくみうた)「思川」,三弦長唄「小笹」など。
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生田検校
いくたけんぎょう
[生]明暦2(1656)
[没]正徳5(1715).6.14.
江戸時代中期の盲人の音楽家。都名 (いちな) は幾一。元禄9 (1696) 年検校に登官。箏曲の創始者八橋検校の孫弟子にあたる。のちに生田検校を芸系の祖とする派を生田流と称するようになった。箏組歌『思川』,段物『五段』『砧』,長歌『小笹』などを作曲したといわれるが,伝記には不明な点が多い。
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世界大百科事典(旧版)内の生田検校の言及
【砧】より
…【竹内 道敬】(4)地歌・箏曲の曲名。佐山検校(?‐1694)作曲の三弦曲および[生田検校]作曲と伝えられる箏曲を源流とする。砧の擬音的表現を主題とする4段構造の器楽曲で,能とは無関係。…
【日本音楽】より
…また,江戸時代初期に[八橋検校]という盲人が筑紫流箏曲をさらに近代化して[箏曲]として大成し,[当道](とうどう)という盲人の組織にのせて普及した。その孫弟子[生田検校]が,地歌三味線曲に箏を合わせることを始めたと伝えられるが,早くから箏曲は地歌と結合して発達した。江戸時代中期には[山田流]箏曲が江戸に誕生した。…
【乱】より
…そのほか,津軽箏曲に発展の途中の段階を示す段構造のものが数種遺存している。三味線曲化したものは,[生田検校]ないし深草検校の作曲と伝えられる。江戸の野田検校が,本雲井調子の替手を作曲しているが,京都などでは,平調子の替手が付けられ,[八重崎検校]の編曲と伝えられる。…
※「生田検校」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」