生類憐みの令(読み)ショウルイアワレミノレイ

デジタル大辞泉 「生類憐みの令」の意味・読み・例文・類語

しょうるいあわれみ‐の‐れい〔シヤウルイあはれみ‐〕【生類憐みの令】

江戸中期、5代将軍徳川綱吉が発布した殺生禁断の令。貞享2年(1685)以後しばしば発令。特に犬を大切にし、犯す者は厳罰に処した。綱吉死後廃止

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改訂新版 世界大百科事典 「生類憐みの令」の意味・わかりやすい解説

生類憐みの令 (しょうるいあわれみのれい)

7~8世紀に牛馬屠殺祈雨風習の禁令,百姓私畜のイノシシの放養令,殺生禁令等があり,鎌倉幕府の殺生禁令をもふくめて,日本史上生類愛護趣旨をふくむ政策は少なくないが,徳川綱吉政権の一連の政策が,とくに生類憐みの令とよばれる。この名称で総括したひとつの幕法は存在せず,その趣旨の法や措置をよぶため,始期についても諸説がある。1685年(貞享2)7月将軍家御成先で犬猫をつなぐに及ばずとし,9月馬のすじをのばすことを禁じ,11月将軍家台所での魚貝類使用をやめる等の措置を早い例とし,87年正月捨子捨病人捨牛馬をきびしく禁じて以来,格別に強化されたとするのが通説に近い。綱吉将軍就任の1680年(延宝8)からこの時期までの施策に対して,生類憐み政策の強化は,綱吉ないし生母桂昌院,寵僧隆光らの個人的嗜好による退廃政治とする見解が古くからあり,無主犬のいたわり令,犬毛付帳の作成等を経て,95年(元禄8)江戸中野犬小屋の設置にいたる犬愛護令の異常さと,これへの反感の記録とが,この印象を強めた。

 だが犬愛護令よりも早く,諸国私領にきびしい処罰条項とともに公示されたのは捨馬禁令であり,放れ馬詮議の必要などをふくめて,農山村に大きな影響を及ぼした。馬荷を過重にすることの禁令も繰り返された。犬愛護令はある程度諸大名領にも及んだが,とくに,大名家の猛犬飼育,野犬の横行が目立った江戸での問題であった。また,捕犬・食犬行為が目についた歌舞伎者への前代からの弾圧策の発展という面ももっていた。毬製造に犬の皮使用を禁じたのは1694年,生犬を餌にすることが多かった鷹の飼育を幕府が廃したのが1693年と,ややおそいことも注意をひく。

 鷹制度は,綱吉将軍就任直後から縮減されてきたが,諸大名にもすでに同様の動きがあり,むしろ幕府鷹制度廃止のおそさが目につく。天皇家を頂点とする贈答儀礼体系の一環として,将軍家鷹狩獲物の天皇への献上,諸大名への鷹および獲物の下賜,大名家から将軍家への鷹貢進等があって,廃止しにくかったわけで,それだけにこの時点での政策の一段の強化をみることができる。放鷹のための野鳥保護,したがって農民の害鳥獣対策規制が,そこで後退したことは善政と意識されたが,反面で野鳥獣を憐みの対象とすることで,在村鉄砲の統制が強化された。在村鉄砲統制は,前代に夜盗横行対策として,とくに関東地方で強化されていったものを,1687-88年以降全国に及ぼしたもので,諸大名領への規制のきびしさにおいてキリシタン対策とあいならび,猟師以外の農民の鉄砲所持を原則として禁止し,鳥獣害に対する鉄砲利用をおさえたが,その全国への適用は生類憐みの趣旨をかかげてのことであった。綱吉以後の鷹狩再興,鉄砲規制緩和までを視野に入れると,人間・自然関係は幕政によって激動をかさねたわけである。職業としての猟師は禁止されなかったが,野獣肉利用を彼らに限ったことは,その身分を変化させたにちがいなく,服忌令(ぶつきりよう)での穢観念の公認等ともあわせて,一連の政策が被差別身分制の強化に果たした役割も注意されてよい。

 憐れむべき生類は,愛玩用魚鳥や猿引きの猿等にも及んだが,ひとも対象のなかであり,捨子・捨病人禁制の強化は,江戸では妊婦登録を求めるまでにもなった。道中旅行者の病気への保護令も強化された。酒造対策も,飲酒抑制の意図をもつものであり,生類憐み政策が,人民を温順ならしめて,これを庇護下におこうとする基調をもったのと通じあう。生類憐みの令の範囲を明確に指示することは困難であり,むしろこれを当時の幕政全般と深く関連しつつ展開した政策であることの解明が有意味である。江戸幕府史上はじめての全国規模での在村鉄砲統制の際,幕府およびこれへの届けを要する諸藩の鉄砲隊が,野獣害に対するたてまえであったように,将軍家〈御慈悲〉により,全人民を庇護と支配のもとにおこうとするこの期の幕権のあり方から,生類憐みの令は合理的に説明できる部分が多い。外様の国大名をふくめて,諸大名を臣僚化する動きの進展後にふさわしい政策であった。だが,1709年(宝永6)正月,綱吉の死の直後に,生類憐みの志をなお表面にはかかげながら,その実質的な廃棄を命ずる措置があいついでとられた。犬愛護令に対する江戸住民の反感が故意の犬殺傷を生み,そのきびしい処罰をもたらす状況は,綱吉政権の専制主義に対する譜代幕臣層を主とした反感にとって,好材料であり,徳川政権を徳川譜代家臣団の政権と意識した勢力は,生類憐みの令を綱吉の個人的恣意として葬りさることで幕政の進展方向を修正していったのである。ただ,捨子・捨牛馬禁令は,以後も長く幕法として生き,在村鉄砲統制は大きく改変されながら,後代を規制した面が小さくなかった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「生類憐みの令」の意味・わかりやすい解説

生類憐みの令(全文)
しょうるいあわれみのれい

  (一)覚
馬の筋のへ(延べ)候儀、第一用方に不宜、其上不仁なる儀にて、御厩(うまや)に立候御馬共、先年より御停止(ちょうじ)被仰付候えとも、今以世上にてハ拵馬在之由候、向後堅御制禁被仰出者也、
 貞享二年丑九月十八日

  (二)覚 御台所張紙写
鳥類貝類海老、向後於御台所つかひ申間敷(もうすまじき)旨被仰渡候、乍然公家衆御馳走其外御振舞之節は可為各別事(かくべつたるべきこと)以上、
 貞享二年丑十一月七日

  (三)覚
惣て人宿又ハ牛馬宿其外にも生類煩(わずらい)重く候えハ、未死内(いまだしなざるうち)に捨候様粗(あらあら)相聞候、右之不届(ふとどき)之族有之は、急度(きっと)可被仰付候、密々左様成儀有之候ハヽ、訴人に出へし、同類たりといふとも、其科(とが)をゆるし、御褒美(ほうび)可被下者也、
 (貞享四年)卯正月日

  (四)口上之覚
今度書付出候上ハ、身体かろ(軽)きものハ、はこくみ(育み)かね(兼ね)可申候間、町人ハ町奉行、地方(じかた)ハ御代官、道中筋ハ*高木伊勢守、給所は地頭え訴可申者也、
 (貞享四年)卯正月日
     *高木守勝。大目付、道中奉行兼任

  (五)覚
 一 捨子有之候ハヽ、早速不及届(とどけるにおよばず)、其所之者いたハリ置、直ニ養候か、又ハ望之者有之候ハヽ、可遣(つかわすべく)候、急度不及付届候事、
 一 鳥類畜類人の疵付(きずつけ)候様成ハ、唯今迄之通可相届候、其外友くひ(共食い)又ハおのれと痛煩候計にてハ不及届候、随分致養育、主有之候ハヽ、返可申事、
 一 無主犬頃日は食物給させ不申候様に相聞候、畢竟食物給させ候えハ、其人之犬之様に罷成、以後迄六ヶ敷(むつかしき)事と存、いたハり不申と相聞、不届候、向後左様無之様可相心得(あいこころうべき)事、
 一 飼置候犬死候えハ、支配方え届候様相聞候、於無別条は、向後ヶ様之届無用事、
 一 犬計に不限、惣て生類人々慈悲の心を本といたし、あハれミ候儀肝要事、
    以上
 (貞享四年)卯四月日
  (『御当家令条』巻33)


生類憐みの令
しょうるいあわれみのれい

江戸幕府5代将軍徳川綱吉(つなよし)がその治世(1680~1709)中に下した動物愛護を主旨とする法令の総称。1682年(天和2)犬の虐殺者を死刑に処したのに始まり、85年(貞享2)馬の愛護令を発して以来、法令が頻発された。綱吉の意図は社会に仁愛の精神を養うことにあったが(1694年〈元禄7〉10月10日訓令)、将軍の強大な権威に迎合する諸役人によって著しく増幅され、また綱吉生母桂昌院(けいしょういん)が帰依(きえ)した僧隆光(りゅうこう)が、戌(いぬ)年生まれの綱吉に男子が育たないのに関して犬の愛護を勧めてから、いっそう極端に走り、人民を悩ます虐政へと発展した。愛護の対象は犬馬牛に限らず、その他の鳥獣にも及んだ。鶏をとった猫を殺した者、うたた寝中体に駆け上がった鼠(ねずみ)を傷つけた者などが入牢させられ、釣り舟の禁止、蛇使いなど生き物の芸を見せ物にすること、さらには生鳥や亀(かめ)の飼育が禁ぜられ、金魚は藤沢遊行寺(ゆぎょうじ)(清浄光寺(しょうじょうこうじ))の池に放たしめられた。1695年(元禄8)には江戸郊外の中野に16万坪の土地を囲って野犬を収容し、その数は最高時4万2000頭に達し、費用も年間3万6000両、これは江戸や関東の村々の負担となった。1709年(宝永6)綱吉死去に際し、この令のみは死後も遵守せよと遺言したが、6代将軍家宣(いえのぶ)はこれを廃止した。

[辻 達也]

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百科事典マイペディア 「生類憐みの令」の意味・わかりやすい解説

生類憐みの令【しょうるいあわれみのれい】

生類愛護の趣旨を含む政策のうち徳川5代将軍綱吉就任以来の一連の政策をいう。1685年始まる捨子・捨病人・捨牛馬の禁止,鷹の飼育禁止などが知られ,江戸中野の犬小屋設置に至る一連の犬愛護令は江戸市民の反感を買った。一方で野鳥類を憐みの対象とすることで在村の鉄砲を統制し,また人心を温順にして庇護と支配の下に置き,諸大名を臣僚化しようとする,この時期の幕府の在り方から展開した政策ともされる。1709年の綱吉の死後実質的に廃案とされ,以後幕府の方向は修正された。→鷹狩元禄文化
→関連項目元禄時代鷹匠徳川家宣徳川綱吉

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「生類憐みの令」の意味・わかりやすい解説

生類憐みの令
しょうるいあわれみのれい

江戸時代,5代将軍徳川綱吉が行なった生類殺生禁止令。綱吉は嗣子徳松の夭折以来,盛んに求子の祈祷をしたが効果はなかった。そこで,生類の殺生を禁じ,戌年生れのため特に犬を愛護すれば,前世での罪障を消すことができ,子も授かるという真言僧隆光の言をいれて,貞享4 (1687) 年これを発令,その死まで励行された。犬に対する愛護は極端で,元禄8 (95) 年江戸中野,四谷,大久保などに犬小屋を建てて犬を養い,その費用を江戸町民に課した。違法者に対する刑罰はきびしく,切腹や遠島もしばしば行われた。この令は綱吉の儒仏愛好心と側近らの迎合主義から生じたもので,悪政の評判が高く,綱吉は「犬公方 (いぬくぼう) 」と呼ばれた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「生類憐みの令」の解説

生類憐みの令
しょうるいあわれみのれい

江戸前期,5代将軍徳川綱吉(つなよし)のときに発令された生類保護に関する幕府法令で,1685年(貞享2)頃からしだいに具体化される。憐みの対象は牛馬・犬・鳥類をはじめあらゆる生類に及んだ。鷹狩・狩猟にも制限が加えられたが,とりわけ犬に関しては細部にわたる規制とともに,野犬収容のための大規模な犬小屋が江戸近郊の四谷・中野・喜多見などに設置された。違反者に対する取締りときびしい処罰が民衆の悪評と反感を招き,これらの諸法令は捨子禁止などごく一部を除き,1709年(宝永6)綱吉の死とともに撤廃された。生類憐みの令は綱吉の個人的恣意として位置づけられてきたが,幕府権力のあり方とその政策的意図からの再評価も試みられている。

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旺文社日本史事典 三訂版 「生類憐みの令」の解説

生類憐みの令
しょうるいあわれみのれい

江戸中期,5代将軍徳川綱吉が出した極端な動物愛護令
1685年以来しばしば発令。綱吉に男子がないのは前世での殺生の報いという僧隆光の言を信じ,戌 (いぬ) 年生まれだったので特に犬を保護した。江戸郊外の中野その他で野犬十数万匹を飼い,費用を江戸の町人に課した。違犯者は厳罰に処せられ,町人の苦しみと不満が増大した。綱吉の死後,6代将軍家宣により,直ちに廃止された。

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とっさの日本語便利帳 「生類憐みの令」の解説

生類憐みの令

第五代将軍徳川綱吉(在職一六八〇~一七〇九)が、世継ぎの男子が得たい一心と仏教の因果応報の理念に深く心動かされたことから発布した、極端な動物愛護令。犬猫から牛馬、鳥類、魚類までを対象とし、事細かに罰則を規定、庶民のくらしを圧迫し、犬公方(いぬくぼう)と陰口された綱吉の死後、ただちに廃止された。

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世界大百科事典(旧版)内の生類憐みの令の言及

【イヌ(犬)】より

…新興都市江戸には野犬が横行して都市掃除人の役割を演じたが,皮および肉の利用をはかって,犬を捕殺する者もあった。17世紀末,徳川綱吉の生類(しようるい)憐みの令はそのような犬観を否定し,犬の愛護と登録を命じ,江戸内外に大量の犬を収容する大規模な小屋を設置させた。諸藩でもこれにならった例がある。…

【桂昌院】より

…綱吉の厚い孝敬をうけ,1702年(元禄15)従一位に昇り,また弟本庄宗資をはじめその一族中幕臣として栄進する者も多かった。深く仏教に帰依し,僧亮賢,隆光等を信頼し,そこから生類憐みの令を極端に助長するなどの弊害が生じたといわれている。【辻 達也】。…

【徳川綱吉】より

… 綱吉は幼少から儒学を愛好し,その精神を施政に反映させることに意欲を燃やし,しばしば幕臣を集めて講義をし,1680年には代官に人民統治の精神を訓令し,82年(天和2)には全国に忠孝奨励の高札〈忠孝札〉を立て,孝子表彰の制度も設けた。〈生類憐みの令〉も聖徳の君主の世には仁慈は鳥獣にまでおよぶという理想世界の実現を意図したものであった。しかしその好学は観念の遊戯の色濃く,その施策,とくに〈生類憐みの令〉は将軍に迎合する幕臣によってゆがめられ,綱吉の実子への執心に乗じて護持院隆光らがたきつけた迷信が加わって,人民へのはなはだしい虐政となった。…

【隆光】より

…91年僧正となり,95年には寺領500石を加えて1500石となり,寺名を護持院と改め,新義真言の僧録を命ぜられ,隆光は大僧正に昇った。将軍綱吉と生母桂昌院に取り入り,〈生類憐みの令〉も実子を強く望む綱吉に彼が勧めたものと伝えられるが,同令が年とともに極端にはしったことに深く関与していると考えられている。1707年(宝永4)駿河台成満院に退き,09年綱吉死後大和超昇寺に隠居した。…

※「生類憐みの令」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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