精選版 日本国語大辞典 「田代三喜」の意味・読み・例文・類語
たしろ‐さんき【田代三喜】
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室町時代の医者。武蔵(むさし)国越生(おごせ)(埼玉県)の生まれ。名を導通、諱(いみな)を三喜、字(あざな)を祖範といい、範翁、廻翁、支山人、意足軒、江春庵、日玄、玄淵、善通など多くの号を用いた。先祖は寿永(じゅえい)年間(1182~1184)の伊豆の人、田代信綱(生没年不詳)で、8代目兼綱が越生に移り、三喜もここで生まれた。1487年(長享1)明(みん)に渡り、留学12年間、李東垣(りとうえん)、朱震亨(しゅしんこう)(丹渓(たんけい))の医学を学んで帰国、足利(あしかが)・古河(こが)に住んだ。古河公方(こがくぼう)足利成氏(しげうじ)の侍医となり、「古河三喜」とよばれた。1531年(享禄4)、京都より足利学校に遊学していた曲直瀬道三(まなせどうさん)が三喜に師事した。三喜は日本における李朱医学の開祖と称され、著書に『和極集(わごくしゅう)』『弁証配剤(べんしょうはいざい)』『印可集(いんかしゅう)』『当流諸沿諸薬之捷術(しょうじゅつ)』『薬種隠名』などがある。天文(てんぶん)13年4月15日没。1537年(天文6)没の説もある。
[矢数道明]
室町後期の医家。武蔵国川越(一説に越生)に生まれ,医を志して臨済宗妙心寺派の僧となった。1487年(長享1)明に渡り12年間留学して金元医学四大家のうち李杲(りこう)と朱震亨(しゆしんこう)学派の医学を学び,日本人留学僧医月湖に師事した。98年(明応7)34歳で帰国,鎌倉円覚寺江春庵に住み,のち下野国足利に移り,まもなく古河公方足利成氏の招きで古河に移った。名医として知られ古河の三喜とよばれた。数年後また武蔵国にもどり関東一円を往来して李朱医学を唱え,その名声をきいた足利学校遊学中の曲直瀬道三(まなせどうさん)が三喜に師事して京都に李朱医学を持ち帰り,近世医学革新へと導いた。
執筆者:宗田 一
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(小曾戸洋)
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…いずれも,著者の独自の見解がおもに編されている。室町時代に有名な医師として特記すべきものに,田代三喜,曲直瀬道三(まなせどうさん),永田徳本らが挙げられる。田代は,足利学校で学んだのち明に渡り,12年間とどまって,新しい医学を修得して帰った。…
…武士を兼ねた金創医は創傷治療を主としていたが,助産や婦人病,さらに小児病などをも治療の範囲としていたから,必然的にこの分野の専門医を生み,実質的な医療の分化をうながした。 戦国期に広まった実地医療を体系づけたのは,田代三喜とその門人曲直瀬道三(まなせどうさん)である。三喜は明に留学して李朱医学を伝え,これをもとに気,血,痰の治療秘訣を明らかにして臨床医学の端緒を開いた。…
※「田代三喜」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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