田辺朔郎(読み)たなべさくお

精選版 日本国語大辞典 「田辺朔郎」の意味・読み・例文・類語

たなべ‐さくお【田辺朔郎】

土木工学者。江戸の生まれ。東大教授、京大教授。琵琶湖疏水設計、水力電気事業開拓、電気軌道敷設、水道工事トンネルなど多方面の事業に活躍晩年「明治工業史」の企画編纂に従事した。文久元~昭和一九年(一八六一‐一九四四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「田辺朔郎」の意味・わかりやすい解説

田辺朔郎
たなべさくろう
(1861―1944)

土木工学者。江戸に生まれる。父孫次郎(1821―1862)は高島秋帆(しゅうはん)(1798―1866)門下の洋式砲術家。1883年(明治16)工部大学校(現在の東京大学工学部)卒業、卒業論文の琵琶湖疎水(びわこそすい)計画は京都府知事北垣国道(1836―1916)に高く評価され、京都府に勤め、同事業を担当。1885年に起工し、1890年に完成した。これは水運利水に加え、日本初期の水力発電所蹴上(けあげ)に設けた総合開発事業であった。東京帝国大学工科大学教授(1890~1900)、京都帝国大学教授(1900~1918)、工科大学長(1916~1918)を務めた。この間、北海道の鉄道建設、シベリア鉄道建設視察、京都市の三大事業である琵琶湖第二疎水、水道、市電建設に貢献。1911年(明治44)以降、関門海底トンネル計画のルート選定などその推進に努めた。日本工学会編『明治工業史』全10巻(1931完結)、土木学会編『明治以前日本土木史』(1936)の編集委員長を務めた。

高橋 裕]

『西川正治郎著『田辺朔郎博士六十年史』(1924・非売品)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田辺朔郎」の意味・わかりやすい解説

田辺朔郎
たなべさくろう

[生]文久1 (1861).11.1. 江戸
[没]1944.9.5. 京都
土木工学者。琵琶湖疏水の工事設計および監督の総責任者。1883年工部大学校の卒業論文で疏水の設計を行ない,卒業後この仕事に従事し,1890年に総延長 20kmあまりに及ぶ工事が完成した。琵琶湖水面は京都より約 50m高いので,両者の間に普通の運河をつくると,流速が速くなり,船の運行が困難となる。このため水門を設けて水位を調節,その間の傾斜面では,動力によりレール上を台車で船を運ぶという装置を使った。また日本最初の水力電気事業の創始者。1890年東京大学教授に就任,続いて北海道庁鉄道部長,京都大学工学部長を務めた。関門トンネルの調査,名古屋中川運河開通にもかかわった。『明治工業史』(1931)その他の著書も多い。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田辺朔郎」の解説

田辺朔郎 たなべ-さくお

1861-1944 明治-昭和時代前期の土木工学者。
文久元年11月1日生まれ。京都府御用掛となり,琵琶湖(びわこ)疏水(そすい)の設計と工事を担当。工事途中で蹴上(けあげ)に日本初の水力発電所を併設,明治23年完成。帝国大学教授をへて京都帝大教授。京都市の3大事業(琵琶湖第2疏水,水道,市電設置)に参画。昭和19年9月5日死去。84歳。江戸出身。工部大学校(現東大)卒。編著に「明治工業史」。

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世界大百科事典(旧版)内の田辺朔郎の言及

【琵琶湖疎水(琵琶湖疏水)】より

…第1疎水の建設は,81年から北垣国道府知事が積極的に推進した第2期京都策と呼ばれる計画として進められた。京都府御用掛に任じられた工学士田辺朔郎(1861‐1944)の設計・指揮の下で,85年着工,90年に第1疎水第1期工事が竣工した。当初は大阪湾と琵琶湖間の通船が第1の目的であり,ほかに水車動力による機業,精米などの近代化や灌漑用水,防火用水など多様な目的を掲げていた。…

※「田辺朔郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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