朝日日本歴史人物事典 「申叔舟」の解説
申叔舟
生年:太宗17.4(1417)
李氏朝鮮前期の外交官,政治家。日本語読みは「しん・しゅくしゅう」。朝鮮の慶尚道高霊が本貫地。字は泛翁。希賢堂,保閑斎と号す。申檣の子。世宗21(1439)年文科(科挙)に合格し,集賢殿に入る。嘉吉3(1443)年,日本への通信使に書状官として随行し,京都に来た。景泰3(1452)年には明への謝恩使首陽大君(世祖)に書状官として従い,北京へ赴いた。端宗3(1455)年の世祖のクーデタによる王位奪取に功績があり,その即位承認を求める使者として明に使いするなど,重用された。世祖5(1460)年には,江原道,咸吉道の都体察使として北方の女真人討伐に功績があった。同7年,官職の最高位である議政府領議政に任命。世祖没後は睿宗,成宗に仕え,これを補佐した。 成宗2(1471)年再び領議政となる。同年,成宗の命によって『海東諸国紀』を著した。これは,当時の日本と琉球の歴史,国情,地理,朝鮮との関係などを記したもので,中世日朝関係の基礎史料となっている。その死亡記事に「事大交隣を以て己が任となす」(『成宗実録』)とあり,『海東諸国紀』には,外交官で知日家の申叔舟の経験と知識が凝縮されている。また,臨終のとき成宗に対して「願わくば国家,日本と和を失うことなかれ」と述べ,日本との交隣の重要性を遺言したという。漢詩文も得意で,その詩文は死後『保閑斎集』としてまとめられた。世宗の訓民正音(ハングル)の制定にも寄与している。<参考文献>田中健夫訳注『海東諸国紀』
(佐伯弘次)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報