矢ヶ崎村(読み)やがさきむら

日本歴史地名大系 「矢ヶ崎村」の解説

矢ヶ崎村
やがさきむら

[現在地名]茅野市ほん

永明寺えいめいじ山の南麓、塚原つかはら扇状地北東部にあり、東と南はかみ川を境とし、北は永明寺山に限られる。大門だいもん(善光寺道)に沿って東西に長い集落をなしている。

承久元年(一二一九)の「諏方十郷日記」(守矢文書)に一〇郷の一つとして「矢崎十五丁四十二間」とみえる。諏訪大祝家系図によれば、敦家の子家直(矢崎神六)がこの地を支配したと伝えられ、大祝職位事書の建武二年(一三三五)の条に矢崎神主こうぬしの名がある。また、村の東端にある御座石ございし神社の祭礼は古くから矢崎やがさき祭とよばれている。矢崎氏(矢崎神六の後裔)は初め村東部の鬼場おにば(現在本丸・土塁・空堀・曲輪・井戸跡を存す)に拠ったといわれ、「諏訪郡諸村旧蹟年代記」に「鬼場城矢崎土佐居」とある。城跡の麓に土佐屋敷とさやしきの地名がある。その後、矢崎氏が上原城に拠る諏訪惣領家の代官となるに及び、村西部の齢松れいしよう(現在本丸・空堀・曲輪を存す)居城を移した。


矢ヶ崎村
やがさきむら

[現在地名]調布市国領町こくりようちよう七丁目

国領宿に北と南を挟まれ、東は和泉いずみ(現狛江市)。「風土記稿」によると、矢ヶ崎長右衛門という人物が一族を率いて開発を行い村を開いたといい、村名も同氏に由来するとされる。田園簿に矢ヶ崎新田とあり、田三石余・畑九石余、幕府領幕末まで幕府領(旧高旧領取調帳など)。また享保期(一七一六―三六)武蔵野新田の開発にあたって矢ヶ崎新田が持添新田としてできている(調布市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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